読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

tailwisdom's blog

tailwisdomのじゆうちょう

国会前デモについて

jp.reuters.com

先日の国会前デモについて、様々な報道や著名人の反応を読んで思ったことを、徒然に書く。
先に話題を提示しておくと、以下のとおりになる。

・参加者の数について
・参加者の数の意味するものについて
・デモの参加者について
・選挙について

徒然に書くので、結論はあったりなかったりする。

参加者の数について

 「あのデモにどれだけの数の人が参加したのか」については諸説ある。
 例えば警察発表は約3万3千人、主催者発表は12万人と、4倍弱の開きがある。
 まぁ、デモの参加者数が警察発表と主催者発表で食い違うのはよくあることだけれど、実際にどのくらいの人が集まったのかは、素朴に興味のわくところだ。
 インターネットは便利なもので、検索すると検証している人たちがたくさん見つかった*1。そこで、検証の過程をオープンにしている記事を2つほど紹介しよう*2
 ひとつは産経新聞によるもので、もうひとつは生活の党のたがや亮氏によるものだ。

www.sankei.com
 産経新聞本社による検証は、現場の人口密度と空撮画像による人のいた面積から、写真に写っている人の数を概算するというもの。
 特に紹介しないが、ツイッター上でも同様の手法による推定はいくつも行われていた。
 その結果は、最大で3万2400人程度、というもの。おおむね警察発表と一致する数字だ。

ameblo.jp
 生活の党のたがや亮氏によるものは、周辺駅の利用者数から概算するというもの。
 詳しい検証方法はリンク先を見てもらうとして、大雑把にいうと、国会議事堂最寄り駅について、改札を出た人の数が他の日と比べてどの程度多いかを数えるというもの。
 それによると、7万人程度が平時より多く改札を出た(デモに参加した)とのこと。警察発表の2倍程度だ。


 両者の推測でだいぶ数字が異なるが、これは、産経新聞が「ある瞬間に国会の前にいた人数」を推定しているのに対し、たがや氏が「その日のいずれかのタイミングに、電車で国会の近くに来た人*3」を推定しているためだろう。つまり、検証の対象となった写真が撮られる前やあとに国会前に来たひとや、国会前ではなく周辺(官庁街や日比谷公園)にいた人をカウントするかどうかでこの程度の差がでたのだと考えられる。
 たがや氏のブログにもあるが、当日は国会前に人を集めないように道路を封鎖したり別の場所へ誘導したりしていたらしい。その理由が何であるのかはよくわからないが、すし詰めによる事故を防ぐなど、安全上の意図があったのかもしれない。いずれにしても、国会前でなくその周辺にいた人もかなり多かったということは、はじめに引用したニュースにも出ているとおりだ。

参加者の数の意味するものについて

 デモの参加者数は国会前で約3万人、周辺を含めるともっと多そうだ、というのが先の節の結論なので、とりあえず数万人の参加者がいた、として話を進める。
 一般的に言って、一つのデモに数万人が参加するというのは、とても珍しい。それだけ、安保法案についての関心、あるいは危機感が大きいということだろう。
 他方、数万人という参加者数は大したことがない、という主張もある。
 www.asahi.com
 橋下氏の主張は、日本の有権者数である約1億人に対して、デモの参加者数は取るに足らない数字だ、というものだ。
 数字だけ比較すると、1億分の数万だから、0.1%以下となり、確かに小さい数字だといえるかもしれない。デモは国会前で行われたものだから、母数には日本全国でなく関東圏、あるいは首都圏の人口を取ったほうがいいとしても、割合としてはせいぜい0.5%といったところだろう。 その意味では、橋下氏の言うように「サザンのコンサートで意思決定する方がよほど民主主義」なのかもしれない。
 しかし、デモの参加者数という数字は、単に「そういう主張をする人がその数だけいた」という意味に解釈して良いのだろうか。
 橋下氏にならって僕もサザンのコンサートを例に使ってみるけれど、たとえばサザンのコンサートに3万人の観客が詰めかけたとして、それを見て「サザンオールスターズのファンは3万人しかいない」と主張するのは妥当だろうか?
 たぶん、「サザンオールスターズには熱心なファンが少なくとも3万人いて、もう少しゆるいファンはそれ以上にいる」と考えたほうが実際に近いだろう。
 同様に、今回のデモに参加した数万人の背後には、デモには参加するほどの行動力は持ち合わせていないが、内心では同じような主張を持っている人々がいるのだろう、と考えるべきではないだろうか。
 もちろん、会場のキャパシティという制限があるサザンのコンサートと、今回のデモを単純に比較することはできない。しかし、安保法制に反対の人がすべて国会前に集結したと考えるよりは、反対の人のうち特に熱心な人が集まった、と考えたほうが自然であるように思う。

デモの参加者について

 前の節とも関連するが、デモの参加者がどういう属性の人達なのか、というのは、デモの社会的インパクトを考える上で重要な要素になりうる。
 実際、デモのインパクトを小さく見積もりたい人はデモの参加者は特殊な人、愚かな人だと主張する。例えば、デモの参加者を「プロ市民」と呼んだりする。
 他方、デモのインパクトを大きく見積もりたい人は、デモの参加者はふつうの人だと主張する。学生や子供連れが参加していることを強調した広報などは、そういう意図だろう。

 僕はデモに参加したり、デモを近くで見たりしたことがないため、デモの参加者がどういう人達なのかはよくわからない。もちろん、参加者の属性はデモによっても大きく異なるのだろう。また、特に今回のような規模の大きいデモには、それこそ「プロ市民」に近い立場の人から、デモにはじめて参加するような人まで、いろいろな人がいるのだと思う。デモの規模が大きくなると、割合としてはふつうの人(特別な属性を持たない人)が増えそうだ。
 じつは大学の先生や作家などのいわゆる知識人も参加していたりするそうなので、参加者がどの程度の理論武装の上でデモに参加しているかも、たぶん千差万別なのだろう。
 そうして多様な人が多様なままにデモに集まるのもいいとは思うが、もし、単なる意思表示だけでなく、ロビー活動なんかを含めた政治活動につなげるのであれば、主導者というか、デモ参加者の意見を総合して外部との窓口になるような組織があったほうが良いのだろうなと思う。というか、それこそ知識人がそうした役割を担うべきではないのだろうか。

選挙について

 デモに行くくらいなら選挙に行け、という主張をときどき見かける。
 デモの参加者のような政治への関心が高いと考えられる人たちが投票権を行使していないと考える理由もあまりないので、デモの参加者は当然選挙に行っており、そのうえでデモにも参加しているのだと思う*4

 選挙とデモの間には、いくつかの相違点がある。
 ひとつには、デモは大抵の場合シングル・イシューだが、選挙はそうではないという点だ。
 安保法案に反対するデモに参加することで安保法案に反対の意志を示すことができるが、選挙は法案単位ではなく政治家、あるいは政党単位であるから、安保法制に反対であったとしても他の政策との兼ね合いを考える必要がある。例えば、安保法案には反対だが、アベノミクスの路線は支持する、という人は誰に、あるいはどの政党に投票すべきだろうか。

 また、デモはdemonstrationの字義通り、直接的な政策への反映以外にも、社会的なインパクトを期待している面がある(ように見える)。
 国会前でデモを行っている人たちは、国会議員たちが意見を変えることを期待しているのと同じくらい、周りの有権者が意見を変えることを期待しているのではないだろうか。あるいは、次の選挙において、安保法案を重要な論点とすることを期待しているのではないだろうか。

 そもそも、参政権とか政治参加というものは別に選挙で投票することだけを指すわけではないので、このようなデモがあることは、それがない場合に比べて、市民の政治参加がより活発である点で民主主義国家として望ましいといえるのではないだろうか。

結論はない

 そういうわけで、今回のデモとそれに関する報道やネット上の反応を見て思ったことを、話題別にまとめてみた。
 特に結論や主張があるわけではないけれど、強いていえば、このデモを機に安保法案の内容や、その手続き的妥当性に関する議論が今以上に活発になればいいなと思う。
 たぶん、それはデモの参加者が求めていることの一つだろう。

*1:Togetterなんかにもいくつかまとめがあった。

*2:この2つを選んだのは、検証の過程がオープンであり、検証の検証が可能であるため。あと、デモに批判的な立場の人と好意的な立場の人を両方紹介することで、多少なりともバランスを取ってみたつもり。

*3:「この日改札を出た人の数-他の日曜日に改札を出る人の数」の差分で求めている。この差がすべてデモの参加者であるという仮定がどの程度妥当かはよくわからない(野次馬なんかも多少は含まれるだろう)。逆に、電車以外で来た人はこの数に含まれていない。

*4:学生など、まだ投票権がないという人はいるかもしれない。

正義は規則に優越しない

 グリーン車の話題について、少し思うところを書いてみる。

東海道新幹線ダイヤ乱れ列車で一夜 NHKニュース

超混雑だった東海道新幹線の乗客が「立っているお年寄りをグリーン車に乗せるべきだ」とツイート→炎上 - NAVER まとめ

論点

 今回の炎上がどういうものかといえば、火事に伴う大幅な運行の遅れにより混雑した新幹線の車中で難儀した人がいて、そうした人に比較的すいていたグリーン車(や指定席)を開放するべきではないか、という議論のようだ。ちなみに、新幹線の車中で指定席やグリーン車の切符を購入することは(空席があれば)車掌に申し出ることで可能だそうだ。しかし、炎上している議論では、お金を払って移動することを批判する人はいなかった。つまり論点は、自由席で混雑に巻き込まれている弱者を「無券で」移動させることの是非のようだ。

「弱者保護」は(数あるうちの1つの)正義である。

 「無券で移動させるべき」という主張をしている人の意見を眺めてみると、『緊急時であるため、特例的処置を取るべき』というような主張が多いようだった。たしかに、火事によるダイヤの遅れの影響で、新幹線は通常以上に混雑し、通常以上に所要時間がかかっていたようだった。そのため、乗客の疲労を緩和するためのなんらかの対策が必要であったという主張には、頷けないこともない。少なくとも、弱者を保護しようという思想自体は圧倒的に「正しい」。

ある正義は別の正義と衝突する。

 しかし、乗客を無券で移動させることにはさまざまな問題もある。
 例えば、無券でグリーン車に移動する乗客がいれば、正規料金を払った乗客は不公平を感じる。また、空席だけでなく、廊下に立つ客などを入れることで全体的な混雑の緩和をはかる場合、「空いている車内」の快適さのためにグリーン車の切符を購入した乗客の権利を侵害していることになる。これは、乗客に対するJRの規則違反だろう。これは、「公平」や「契約履行」という正義に抵触している。
 もちろん、混雑した自由席車両から疲れた人が移動してきて指定席車両やグリーン車で休んでいたとして、それ自体に文句をいう人はほとんどいないと思う。現に目の前に困っている人がいるときに、ことさらその人をさらに攻撃しようと思う人は珍しい。
 だけれど、JRがグリーン車を無券で開放したとなれば、当然グリーン車の乗客たちは払い戻しを求めるし、その要求は当然のものだ。グリーン車の乗客が何名いたのか知らないが、料金を払い戻せば数十万円から百数十万円になるだろう。現場の車掌の判断でグリーン車を開放するのは難しいのではないだろうか。それに、車両を開放したとして、誰が移動をオペレートするのか。ただ車両を開放するだけでは、混雑した社内の中で人が移動して、余計なトラブルを生んだ可能性もある。
 こうした問題があることがわかっていたなら、「それについてはそっちで何とかしろ」と丸投げしておいて「弱者保護」を訴えても、説得力はないだろう。同様に、複数の正義が衝突しているときに一つの正義だけを盲目的に信じて、他の正義が存在することすら認めないという態度も説得力がない。というよりも、対話の可能性がない。相容れない意見を全否定して石を投げ合ってても宗教戦争にしかならないわけで、必要なのは相反する複数の正義の「落とし所」を探すことだろう。

規則が複数の正義を調停する。

 弱者保護のためにはそうした不正義は問題にならない、と主張する人がいるかもしれない。もし、現にグリーン車に乗っている乗客たちがそう主張するのであれば、たしかにそのとおりだと思う。当事者が合意の上である正義を選びとるというのなら、それも良いだろう。しかし、現にグリーン車に乗っているわけではない人たちがそう主張するのだとすれば、それは無責任だ。ある人の正義と別の人の正義がぶつかっている場合、それを調停するのは規則の役目だ。規則が不正義だというのであれば規則を変更するべきだけれど、規則を変更する手続きについては、また別の規則が定めている。そして、民主主義においては、ふつう規則の変更手続きは、それ自体が相反する正義の調停プロセスになっている。規則を定める/変更する手続きによって複数の対立する正義が調停され合意が形成されているので、基本的には規則に従うことが最大多数の正義に適う行為であるはずだ*1

規則を破れば責任を問われる。

 規則を曲げるという判断は、一般にリスキーだ。規則を破ること自体にペナルティがある場合もあるけれど、それ以上に、規則を破った結果おこったトラブルについては、個人の責任になりがちだからだ。例えば、今回車掌が個人の判断でグリーン車を開放したとして、それによって特にトラブルが起きなければ、車掌の判断は賞賛されるだろう。しかし、万が一トラブルが発生した場合*2、規則を破った車掌個人がその責任を問われるおそれがある。
 重要なのは、ここで規則を破るリスクを追うのは車掌であるということだ。「弱者保護」を訴えている人がどう思っていても、彼/女らが責任を肩代わりすることはできない。僕が今回の騒動で気になったのはこの部分で、自分は損をしない立場にいながら、他者がリスクを取らないことを避難する態度は正義ではないと思った。
 上にも書いたように、正義は一つではなく、相反する複数の正義が存在する。そのため、(規則によらない)正義の行使というのはある意味で個人的な行為であって、自身の責任が及ぶ範囲でのみ行うべきだと思う。

余談:じゃあどうすればよかったのか。

 以上の僕の主張も、言ってみれば一つの正義にすぎない。だから、たぶん納得出来ない人も多いだろう。特に、実際に混雑した車内に極度に疲労した人がいて、他方グリーン車などが比較的空いている状況に出くわしたら、乗客の移動があるべき正義であるように思うかもしれない。
 とはいえ、やはり車掌に規則を曲げる判断を促すというのは無責任だと思うので、他に何かできることがなかったのか、を考えてみた。


<今回できたこと>
1.自分の席を譲る。
 もし自分が座席を確保していたのであれば、自分の座席を困っている人に譲る。基本的だけれど有効な方法だ。混雑した車内でも3人か4人に1人くらいは座れるわけで、これだけでもかなりの弱者は助かったと思う。というか、実際に席を譲る人が多かったと聞く。

2.正規料金を払って移動する。
 規則違反となるのは「無券での移動」だから、正規料金を払うならば問題ない。困っている人のためにグリーン車のチケットを買ってあげるほどの親切心を発揮できる人はあまりいないと思うけれど、自分が移動するだけでも少なくとも1人分のスペースが空く。ただ、いずれにせよ空席がなければ無理なので、それほど有効な対策ではなさそう。

3.規則に従って規則を破る。
 今回のケースだと、規則違反それ自体よりも、それによって派生的に発生する可能性があったトラブルが懸念されていたように思う。
 そのため、そうしたトラブルを回避することができれば特例的措置も可能だったのではないか。例えば、車掌がグリーン車を開放するような措置が可能であるかどうかを本社に問い合わせるなど、責任が取れるように事態をコントロールする工夫はあったかもしれない。ただし、当時の車掌やJRがどのくらい忙しかったのか分からないので、これが現実的な案なのかはよくわからない。

4.車掌の許可を得ずにグリーン車に移動させる(非推奨)。
 今回の元ツイートで僕が引っかかったのは、規則違反を「車掌に」求めていることだ。つまり、規則違反のペナルティを自分ではなく車掌に負わせている点だ。そのため、例えば車掌の許可を求めず、自身の責任において規則違反(グリーン車への無券での移動)をし、その結果生じたトラブルの責任を取るのであれば、それはそれで一貫した行動だと思う。(もちろん、規則違反それ自体は支持しない。)
 それによって特にトラブルも生じず、関係者全員が納得したなら美談になったかもしれないし、なんらかのトラブルが生じたら、早まった行動であると非難をされただろう*3。いずれにしても、責任を取る能力があったのなら、推奨はされないが、そういう選択肢はあったように思う。
 ただ、今回の新幹線の遅れで病人やけが人が出たというニュースは今のところ見ないので、そのような過激な手段に出る必要はやはりなかったのだと思う。


<今後できること>
1.マニュアルの整備
 こうした状況下での有効な対策が規則として明記されていれば、今回のような議論はなかっただろう。
 もちろん、対策を準備するのはJR側だけではなくて、乗客の側も、こうした新幹線の運行の遅れ、トラブルに対応できるようにスケジュールの余裕や移動手段の選択肢を確保しておくことが望ましいだろう。口で言うほど簡単なことではないけれど。

*1:ただし、これは規則が民主的に決められている場合の話であって、非民主的に決められた規則についてはその限りでない。

*2:そして、トラブルが発生する可能性はそれほど低くなかったように思う。

*3:どちらかと言うと、後者になった可能性が高いように思う。

宝くじと夢と期待値と大数の法則について

宝くじと期待値について

 年末ジャンボ宝くじが発売されているらしい。
 僕はギャンブルに向いていないので手を出していないけれど、確かに宝くじ売り場の前を通ると、行列ができていることもあったし、きっとよく売れていることだろう。宝くじの売上の一部は税金と同じように地方の収入となるので、大いに売れてほしいと思う。

 ところで、宝くじというと「ギャンブルの中でもかなり期待値が低い」ことで有名だ。前に大雑把に計算したら、期待値はだいたい0.5くらいだった。これがどういうことかというと、宝くじを1万円分買う、ということを繰り返すと、当選額の平均は5000円に近づく、という意味だ。

期待値と夢について

 1万円賭けて5000円返ってくるのだとすれば、当然収支は赤字である。「宝くじは夢を買っているのだ」という主張は、つまり当選金が欲しいわけではなくて、くじのワクワク感を楽しんでいるのだ、ということだろう。まぁ、そういう趣味があっても別に良いと思う。

 ただし、ここで重要なのは、期待値というのはあくまでも十分な試行を重ねた場合に収束する点であって、それほど信頼できるものではないということだ。宝くじの期待値は低いけれど、宝くじで儲けた人がいないわけではない。逆に、期待値はすごく高いけれど、儲けるのはとても難しい、というゲームもありうる。サンクトペテルブルグのパラドクス、と呼ばれるものがその一例だ。

 宝くじを買えばたいていは損をする。期待値が0.5だといっても、これは損をする人が半分という意味ではない。宝くじは圧倒的多数の人が少しずつ損をして、極少数の人が大儲けをする仕組みだから、人数で言えば損をする人のほうが圧倒的に多い。裏を返せば、損をするときは傷が浅いけれど、得をするときは大儲けなので、一発逆転には向いているかもしれない*1。ものすごく低い確率だけれど、何百円の投資によって何百万円、はては3億円が手に入るというのは、なかなか他の手段では実現しにくい。

 つまり、宝くじは期待値は小さいけれど偏り(結果のゆらぎ)が大きい。その偏りこそが「夢」と呼ばれているものだろう。
 例えば、公務員という職業は「夢がない」と言われがちだけれど、これはつまり、公務員という職業は安定していて「偏りが少ない」という意味だ。公務員(に限らず、多くのサラリーマン)の給料はおおむね決まっていて、来月もらえる給料はほぼ完全に予測可能だし、5年後の給料もある程度は予測ができる。それは、例えば自営業の人やギャンブラーに比べると、はるかに偏りが小さい=夢がないといえるだろう*2

大数の法則について

 確率や期待値というのは行動決定の指針にはなるけれど、試行回数が少ない場合にはあまり役に立たない。
 というのも、試行回数が少なければ、相対的に珍しいことが起きる割合が大きくなるからだ。

 例えば、ここに1枚のコインがあったとする。このコインは実は細工がなされていて、表が出る確率が2分の1ではなく、表か裏のどちらかがより出やすくなっている。そこで、あなたは、実際にこのコインを何度か投げてみて、どちらが出やすいのかを調べてみることにしたとしよう。
 まず1回コインを投げると、裏が出た。ということは、このコインは裏が出やすいコインなのだろうか? もちろん、一回だけの試行ではわからない。もしかすると、たまたま出にくいはずの表が出ただけかもしれないから。
 10回投げてみると、表が5回、裏が5回出た。おや、このコインには仕掛けなど無いのだろうか? いやいや、決めつけるにはまだ早い。たまたま結果が偏っているだけかもしれない。
 100回投げてみると、表が57回、裏が43回出た。どうやら、少し表のほうが出やすいようだ。 とはいえ、まだ確信するには早いかもしれない。
 1000回投げてみると、表が603回、裏が397回でた。 ここまで来ると、表のほうが出やすいというのはほぼ間違いないといえるだろう。しかし、「では、何%の確率で表が出るのか」というと正確にはまだわからない。それを知るためには、さらなる思考が必要だといえるだろう。
 ちなみに、統計学では結果のばらつきが偶然なのか、それとも確率の方よりなのかを判断するために、「検定」という方法を使う。これによって、確率の偏りがどの程度なのかを評価できる。そしてその場合も、基本的には試行回数が多いほど評価の精度は良くなる。統計を使う人々が総じてデータに飢えているのは、そういう背景によっているのだろう。

 別の例を出そう。
 将棋や囲碁のプロが対局しているとしよう。対局している2人の騎士の力が拮抗していれば、序盤の二人の棋士は、少しでも自分が有利になるように、言い換えれば期待値が最大になるように手を進めていく。
 中盤、互角だった形勢が、徐々に傾いていく。有利な棋士は優位をさらに強化するように手を進め、不利な棋士は形勢をひっくり返すための手を模索する。このとき、棋士は期待値に加えて、確率のばらつき、言い換えれば「夢」について考える。
 将棋の手筋には、比較的道筋のはっきりした手筋(例えば定石と呼ばれるようなものだ)と、さまざまな分岐のあり得る複雑な手筋が存在する。複雑な手筋になると、いくらプロの棋士といえどもうっかり悪手を指してしまう確率も高まり、形勢がひっくり返るような事態も起こりやすくなる。それゆえ、有利な棋士はそうした複雑な手筋を嫌い、多少期待値で損をしても、わかりやすい局面にしようとする。他方、不利な棋士は逆転を目指して、より局面を複雑にしようとかき乱す。
 もちろん、複雑な局面にしたからといって、不利な棋士ばかりが得をするわけではない。不利な棋士が悪手を指し、不利が決定的になってしまう可能性だって大いにある。というか、どちらかと言えばその可能性のほうが高い(形勢が不利な棋士は、指せる手が相対的に限られていることが多いから)。
 それでも、一度傾いた形勢をひっくり返すためにリスクを取るという選択肢は、戦術として十分にありえる。これは将棋や囲碁に限ったことではなくて、例えばサッカーの試合でも、試合終盤になれば勝っているチームはボール回しが増え、負けているチームはロングボールが増える。ふつうにやってはジリ貧になるような状況下では、「夢」に賭ける選択こそが合理的になる可能性もあるだろう。神に賭けよ、といった哲学者もいるし。

宝くじと夢について

 結局何が言いたいのかといえば、宝くじを買うことが得か損かということは、結局「夢」の価値をどのくらいに見積もるのか、ということによって決まるということだ。
 お金儲けの手段として宝くじを使うのはあまりにも分が悪いけれど、どうしても大金がほしいけれどお金を儲ける手段を持っていない、というのならば、不利を承知で宝くじを買う選択があってもいいかもしれない。
 もちろん、宝くじを買う行為そのものが楽しいのだ、という主張があっても良い。宝くじを買わない僕でも、お年玉付き年賀はがきの当落をチェックする作業はけっこう好きだし。

*1:これは、投資で失敗する人のパターンが小さな得を積み上げながら、ある日突然巨大な損をして破綻する「コツコツドカン」だと言われているのと、ちょうど対照的だ。

*2:一応ことわっておくけれど、僕は「夢がある」ことがいいことだとは主張していない。個人的にはむしろ、人生計画の立てやすい偏りの少ない(夢のない)生き方をしたいと思っている。

『おおかみこどもの雨と雪』について

ASCII.jp:「おおかみこどもの雨と雪」興収42億円ヒットの背景 (1/5)|渡辺由美子の「誰がためにアニメは生まれる」

 金曜ロードショーで取り上げられたこともあって、最近、おおかみこどもの雨と雪の感想をよく見かけた。
 おおかみこどもは、その興行的な成功とは裏腹に、僕の観測範囲では毀誉褒貶さまざまで、貶の最たるところだと、こういうのもあった。
 さすがにこの匿名ダイアリーは誤解がすぎると思うけれど、ともあれ人によって感想が違うという状況はおもしろいので、僕も僕の思うところを書き綴ってみようと思う。

(追記:今朝ついったーのRTで流れてきた @tail_y さんの感想がすごく良くて、そのついーと群を引用したらもう僕が書くことは何もないですみたいな感じになった。とぅぎゃったーにまとめられていたらそっちを引用したかったのだけれど、まとめはないっぽいのでついログのurlを貼っておきます。おおかみこどもの話はまんなかあたりから。)

全体的な感想

 おもしろかった。というよりも、いい話だなぁと思った。
 僕は、「おおかみこども(狼人間)」をマイノリティの比喩だと思った。生まれながらにして(生まれる前から?)ふつうの人間とは違う性質を持っている子供。狼人間という性質が良いものであるか悪いものであるかということとは関係がなく、「ふつうの人間とは違う」という事自体が大きな枷として機能してしまう状態。そういうマイノリティである雨や雪、あるいは雨や雪の保護者である花の苦労と成長が描かれる、という内容だと受け取った*1
 雨と雪のふたりは、狼人間であるという自身の性質に苦しみながらも、最終的にはそれぞれ人として、あるいは狼としての生き方を選びとり成長していく。そうやって雨と雪がそれぞれの生き方を見つけ、成長していくという物語は、マイノリティへの応援になっていたと思う。

都会と田舎の人間関係について

 花は、はじめ都会(東京?)の大学生だった。だから、雨、雪の出産直後は、しばらく都会で生活している。
 しかし、都会での育児には困難が伴う。雨の夜泣きによって近所の人に怒鳴り込まれたり、雨が泣き止むまで家の外に出れば出たで、柄の悪い連中の影に怯えて場所を移動したりしている。また日中に公園を散歩していても、ふとした拍子に狼化した姿を周囲の人に目撃されかけて慌てて逃げるシーンもあった。都会には人が多く、どこにいても(アパートの自室にいてさえ)他者から隔離されて生きることは難しい。周囲との接触それ自体がストレスになる花たちにとって、都会での生活というのは実に息苦しいものであった*2
 都会での生活につかれた花は、田舎への転居を決める。そして花は、田舎の集落の中でも辺縁に位置する、山の近くの空き家を転居先に選ぶ。それがなぜかといえば、その時点での花の望みは周囲との隔絶であって、静かな生活であった。だから、そこが都会であろうと田舎であろうと、なるべく周囲に他者がいない場所を求めるのは当然だった。
 さて、都会の人口密度につかれた花は田舎に転居したが、それによって花のかかえる問題が全て解決したのかというと、もちろんそうではない。自宅の補修に始まるさまざまな困難に加え、人間関係についても、隔絶からは程遠い状況だった*3
 それでも田舎での花たちの生活が都会よりも平穏なものとなったのは、一つには都会と比べて人口密度が低いいなかでは、周囲と隔絶された時間というものがある程度は確保できたこと*4、そして、雪、雨の成長によって、それほど隔絶が必要でなくなったことによる。
 またもしかすると、都会と田舎では人間関係の匿名性が異なる、というのも一つの理由かもしれない。都会で花のストレスとなった「周囲の人達」は、名前の分からない人たちであり、またその顔も描かれないことが多い。他方、田舎での花の周囲の人たちは、顔と名前が存在する(作中で名乗っていたかは覚えていないけれど、少なくとも花たちは、彼らの名前と顔を把握しているはずだ*5)。顔のわかる相手というのは、つまり個別にコミュニケーション出来る相手であるので、匿名的な相手よりは付き合いやすいのだろうと思う。

雨と雪について

 雨と雪は、一貫して対照的に描かれていた。
 外向的な雪と内向的な雨。人として生きる雪と狼として生きる雨。どちらかと言うと、雨のほうが苦労の多い生き方をしていたように見えるけれど、それはたぶん、花の生き方が人間的だったからだろう。花は雨と雪にできるだけ自由に生きてほしいと願ったけれど、とはいえ人間である花が育てる以上、その生き方は人間の生き方をベースにしたものにならざるを得ない。
 小学校低学年までは生きづらそうにしていた雨が、山で狐の「先生」に出会った以降は急速に自分の生き方を確立していったのも、「狼としての生き方」を見つけることができたからだろう。 他方、雪は早々に人間としての生き方を身につける。蛇の抜け殻を集める趣味が他者にとって受け入れがたいものであることを学び、可愛らしいワンピースをねだる。すなわち、彼女は人として生きる。
 2人の生き方は、「狼人間である」という人間世界での生きづらさをどのように受け止めるか、という点で、やはり対照的だったと思う。雨は、「狼人間である」という自身の性質を発揮するため、人間世界に背を向け、山へと入っていく。雨にとっては、狼であるという彼の性質が抑圧される人間世界よりも、彼の性質をいかんなく発揮できる山の世界の方が生きやすい場所だったのだろう。
 他方、雪は「狼人間である」、という自身の性質を隠し、人間世界で生きていく。雪にとって「狼人間である」という自身の性質は守るべき重要なアイデンティティではなかったのだろう。とはいえ、彼女のその性質は、しばしばトラブルをもたらす。特に、雪が誰かと親しくなろうとしたとき、彼女は自身の性質を打ち明ける事が必要になるだろう*6
 雪と雨の違いは、自身の性質と周囲の環境となじまないときに、自身を変えるか(雪)、周囲を変えるか(雨)の違いだ。そのどちらがいいというわけでもなく、それぞれにとって生きやすい道を見つけることが重要なのだと思う。

花について

 母は強し、の言葉で片付けるのはあまりにも乱暴かもしれないけれど、そうとしか言いようがないくらいスペックの高い人だ。
 苦学生から突如として2人の赤子を育てるシングルマザーとなった。それだけでも過酷なのに、子供である雨、雪は狼人間であるために周囲の援助も受けづらいなど、きわめて辛い境遇に置かれている。それゆえ、花は完璧な母親に「ならざるを得なかった」。人に頼ることができない以上、花はひとりでなんでもできる母親になる他、生きていく術がなかった。『おおかみこども』にリアリティがないとしたら、その原因はほぼすべてここに起因するように思う。
 もちろん、花ははじめから完璧な母親だったのではなく、完璧な母親になるために努力をしている。花が本を読んで勉強をしている姿は何度となく描写されるし、転居時に家具らしい家具もないのに、本棚と本だけは早い時期からあったことからも、彼女の中で本による知識の習得がきわめて重要だったことが示唆される。チートっぽいキャラクターではあるのだけれど、花は超人として設定されているわけではなくて、努力によって超人にならざるを得なかった凡人なのだと思う。
 ところで、花は物語冒頭に母になり、それ以降ずっと、雨と雪の母親としてあらゆる困難と直面していく。そして物語のラストで、雨は狼として山へと入っていき、雪は全寮制の中学校へと進学し、ともに家を出る。そうして子供が自分の手から離れたのち、十数年を母として生きてきた花は何を思い、どうやって生きるのだろうか。この節のはじめに「母は強し」と書いたけれど、母としての役割の大部分を果たし終えたあと、花は何になるのだろうか。
 僕としては、雨よりも雪よりも、花の「今後」がどうなるのか、それが一番気になった。

*1:花に関しては、成長するまでもなくはじめからすごく優秀な母親だったようにも見えるけれど。

*2:ただし、それは都会の人口密度といった構造的な問題であって、都会の人間が冷酷だとかそういうことではない。

*3:転居後のシーンで、狼化した姿で近所の人の前に現れるという雪のいたずらに花が慌てるシーンがあった。

*4:例えば、物語終盤の雨と雪の喧嘩シーン、あれが都会のアパートの一室で行われていれば、警察を呼ばれても不思議ではない騒ぎだったろう。隣家と離れた田舎の家だったからこそ、あれは単なる兄弟げんかとして処理することができた。

*5:雨は把握していないかもしれない

*6:雪が草平にしたように。あるいは、雪の父親が花にしたように

ラノベかラノベじゃないか微妙なラインの小説7選

 はてブを眺めていたら、ラノベも一般小説*1も読む、そんな僕の需要に応える素敵なエントリーを見つけた。

ライトノベル好きが違和感なく読める一般小説10選 - 補助線とタワシ

 上記エントリーでも指摘されているとおり、ライトノベル読者を一般小説へ誘導しようという動きはけっこう見られて、例えばメディアワークス文庫の創設*2だったり、ライトノベルレーベルから出版された作品の一般レーベルへの移動だったり、レーベル自体はライトノベルレーベルではないものの、装丁がライトノベルっぽい小説もある。わりかし境界は曖昧だ。
 硬派なイメージのハヤカワSFにも、最近は(?)ライトノベルレーベル出身*3の作家が多く存在している。

 ということで、僕も便乗して、ラノベと一般小説のどちらに分類するかちょっと悩む「微妙なライン」から僕が好きな作品を選んで紹介してみる。
 本当は上記エントリーに敬意を評して10作選ぼうと思ってたんだけれど、途中で力尽きちゃった。。。

コンセプト

・「ラノベっぽい一般小説」もしくは「一般小説っぽいラノベ」を取り上げる。
・取り上げた作家の別の作品にもできるだけ言及する。
・僕の好きな作家のファンを増やす(重要)

米澤穂信春期限定いちごタルト事件

 アニメ化した『氷菓』でお馴染みの米澤穂信から、〈小市民〉シリーズの第1巻。〈古典部〉シリーズ同様に高校生が主人公なのだけれど、氷菓よりも総じてダークな話が多く、また主人公とヒロインの性格も捻くれている。ただ、シリーズが進むに連れ、主人公とヒロインも成長していくため、最終的にはふたりとも良い奴になっているかもしれない。
 小動物的な見た目だけれど、性格と口が悪い、という本作のヒロインについては好みが分かれるだろうけれど、千反田えるよりも伊原摩耶花が好きな人*4はきっと楽しめると思う。

 米澤穂信の小説はどちらかと言うとドロドロした性格の登場人物が多く、むしろ〈古典部〉シリーズが例外的に明るいだけかもしれない。もっと後味の悪い話が読みたければ『ボトルネック』や『儚い羊たちの祝宴』を、謎解きが読みたいなら『追想五断章』や『犬はどこだ』や『インシテミル』を読んでみるといいと思う。ファンタジーに抵抗がないなら、『折れた竜骨』もおすすめだ。
 

野崎まど『[映]アムリタ』

 紹介する『アムリタ』はメディアワークス文庫だけれど、最近ハヤカワSFにも進出した期待の新人。
 不思議な作風の作家で、前半は突飛な設定とコミカルなキャラクター造形やセリフ回しでぐいぐい読ませ、後半にはばらまいた伏線を一気に回収してどんでん返しに次ぐどんでん返しで想像の斜め上の結論へと着地する。初めて読んだときは失礼ながら絶対に一発屋だと思ったのだけど、その後もコンスタンスに水準の高い作品を書き続けていて、新刊を読むたびに土下座して非礼を詫びている。 

 野崎まどの著作は基本的に1冊完結なのだけれど、『2』はそれまでの作品の集大成になっている。だから、メディアワークス文庫の既刊を読むときは、原則として発売順に読んだほうがいいと思う。また、『なにかのご縁』はそれまでとは毛色の違うハートフルーストーリーだった。
 ハヤカワSFの『know』と『ファンタジスタドール イブ』はメディアワークス文庫の作品に比べるとコメディ成分少なめ、SF成分多めになっているけれど、これまためちゃくちゃおもしろい。
 逆に、コメディ側に寄せすぎてひどいことになった*5のが電撃文庫の『野崎まど劇場』だ。これはかなり読む人を選びそうなので、買う前に5ページでいいから立ち読みすることをおすすめする。

綾辻行人『Another』

「Anotherなら死んでた」のフレーズでお馴染みの『Another』。僕はアニメじゃなくて実写映画の方を観たんだけれど、橋本愛が実に可愛かった。ただ、映画版は小説よりもかなりホラーというかスプラッタ寄りになっていたかなぁという印象。痛い描写苦手な人は注意。
 原作小説は、ラノベとミステリとホラーを足して2で割った*6感じの、独特の雰囲気の小説だった。ある程度はミステリィの文法に従って書かれているので、謎解きをしながら読むこともできる。

 作者はむしろ本格ミステリ作家として有名で、館シリーズと呼ばれる作品群を書いている。僕も『Another』のあと『十角館の殺人』を読んでみたのだけれど、解決編では思わず唸ってしまった。

野尻抱介『南極点のピアピア動画』

 初音ミクニコニコ技術部を題材としたSF。ニコ動を題材としていることからもわかるように、おおむね現在の技術水準に準拠していて、SFなんだけれど、「これ、もしかしたら数年以内に実現するんじゃね?」みたいなリアリティがあっておもしろい。また、ニコニコ技術部*7をモチーフにしているため、みんなでワイワイ凄いものを作り上げていくというライブ感というか一体感があるのもおもしろかった。
 作者の野尻抱介は、実際にニコニコ動画に投稿もしているので、気になったらそちらもチェックしてみよう。

 野尻抱介の著作、いまから手に入れるならハヤカワSF版になると思うけれど、クレギオンシリーズや『ふわふわの泉』、ロケットガールシリーズはもともと富士見ファンタジアから発売されたものなので、わりとラノベっぽい雰囲気も残っている。他方、『太陽の簒奪者』や『沈黙のフライバイ』はタイトルからしてガチSFで、内容もガチSFなのだけれど、文章自体は読みやすいのでSF初心者*8にもオススメだ。
 これでSFに興味を持ったら、クラークの『2001年宇宙の旅』とかに進んでもいいと思う。

田中芳樹銀河英雄伝説

 最近、宝塚にもなっててびっくりした。
 観に行こうかとも思ったのだけれど、ちょっと勇気が足りなかったね。。。

 スペースオペラの大長編。とにかく登場人物が多くて、しかもみんなキャラが立っている。セリフ回しも格好良くて、思わず引用したくなるフレーズが多い。
 僕は小学生から中学生にかけて、銀英伝(をはじめとする田中芳樹作品)に触れて育ってきたので、いまの性格の何割かは銀英伝の影響を受けている気がする。中学校の卒業文集かなんかで、尊敬する人に『ヤン・ウェンリー』と書いた*9くらいにははまっていた。

 銀英伝は正伝10巻、外伝4巻で完結しているけれど、田中芳樹のスペースオペラでは、『タイタニア*10』もおもしろかったし、スペースオペラではないけれど、『アルスラーン戦記*11』もおもしろかった。
 『創竜伝*12』や『薬師寺涼子の怪奇事件簿*13』は作者の政治思想が露骨に出ているのでちょっと読みづらいところもあるけれど、それが気にならないなら楽しめる。
 実は、富士見ファンタジア文庫でも書いたことがあって、そのシリーズのタイトルは『灼熱の竜騎兵(レッド・ホット・ドラグーン)*14』だ。

滝本竜彦ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ

 『NHKにようこそ!』の方が有名かもしれないけれど、あえてデビュー作のこちらで。
 夜な夜なチェーンソー男と戦う美少女を援護する俺、というある時期の非モテ男子なら一度は想像するシチュエーション*15をふくらませた青春小説。
 非モテ男子高校生の鬱屈した精神と厨二病の妄想をベースにした物語なので、ピンポイントで特定の層の心に深々と突き刺さって離れない。リアリティのかけらもないチェーンソー男がリアルな高校生の生活リズムの中に織り込まれている独特の世界観もおもしろい。

 同作者の『NHKにようこそ!』は漫画化、アニメ化しているけれど、漫画と原作小説ではかなりストーリーが異なっていた気がするので、漫画版しか知らない場合は、原作小説を読んでみても良いと思う。
 また、小説とエッセイが融合したような作風の『超人計画』もおもしろかった。文庫版表紙を飾るのは、瀧本さんの脳内彼女だ。

壁井ユカコ『カスタム・チャイルド 罪と罰

 電撃文庫の「カスタム・チャイルド」とは別で、これはメディアワークス文庫
 遺伝子操作によって生まれてくる子供の容姿や能力を操作できてしまう時代が舞台の青春小説。かなりシリアスなストーリィで、ドロドロした人間の負の面みたいなものがたびたび出てくる。そのため、がんばってまっすぐに生きてる登場人物たちは逆に貴くみえて、逆境を顧みずに努力する姿はかっこいいなと思う。

 もうちょっとマイルドなお話が好みなら電撃文庫の『キーリ』を、シリアスな話が好みなら『NO CALL NO LIFE』や『イチゴミルク ビターデイズ』をオススメする。

以上!

 ということで、思いつくままにおすすめを挙げてみた。アニメ化した作品なども多くて、紹介されるまでもなく知ってたよ、という人が多いかもしれない。そうだったら申し訳ない。
 上で挙げなかった作家でも、乙一(GOTH)、辻村深月(冷たい校舎の時は止まる)、茅田砂胡デルフィニア戦記)、小野不由美屍鬼)、恩田陸(夜のピクニック)、森博嗣スカイ・クロラ)、奈須きのこ(DDD)、海原育人(ドラゴンキラーあります)、などなど、「微妙なライン」は意外と広大なので、おすすめがあったらコメントやブクマで紹介してもらえると嬉しいなぁ。

*1:ライトノベルじゃない小説を便宜的にこう読んでいます。

*2:新人賞や書いている作家など電撃文庫と共通の部分は多いけれど、レーベルの雰囲気としては電撃文庫よりも一般小説チックだ。

*3:現在もライトノベルレーベルで作品を書いている方を含む

*4:僕のことだ

*5:いちおう褒めてる

*6:3で割るよりは全体的に濃い目

*7:や、オープンソースハードウェア

*8:僕自身、SF初心者なのだけれど

*9:厨二病というよりは、歴史上の人物に憧れる感覚でヤン・ウェンリーに憧れていた気がする。どっちみち黒歴史だ。

*10:未完

*11:未完

*12:未完

*13:未完。でも続刊は比較的順調に出ている

*14:未完

*15:するよね? 僕は100回くらいした。

掛け算の順序問題について

かけ算の順序問題 - Wikipedia

掛け算順序問題派閥チャート

 なんか定期的に話題になっている気がするけれど、一向に議論が収束する気配が見えないので、せっかくなので僕も口を挟んでみる。
 実はこの問題、ググるとけっこうな議論の蓄積があるようだけれど、このエントリでは、そうした過去の議論はほとんど踏まえられていない。だので、周回遅れの議論になっている可能性もあるし、そもそも論点がずれている可能性もある。
 基本的には、「世の人もすなる「掛け算樹序問題への言及」といふものを、われもしてみむとてするなり」といったスタンスだ。

順序問題とは何か。

 「掛け算の順序問題」とはどういうものか。それは、文章題の立式作法の問題である。例題をあげよう。

問.みかんの入った袋が3袋あります。1つの袋には、みかんが5個入っています。
みかんは全部で何個あるでしょう?

答えは15個だが、順序問題で重要なのは、答えではなく立式である。
この問題からは、「5×3」と「3×5」という立式があり得る。*1

このとき、「5×3」が正解であって、「3×5」は不正解であるとするのが、「順序があるよ派」の主張である。
彼らの主張によると、掛け算の立式というのは「1つのまとまりの数×まとまりの数」で表現されねばならず*2、この場合は、「1袋にみかんが5つ」が「1つのまとまりの数」であって、「袋が3つ」が「まとまりの数」である。したがって正しい立式は「5×3」となるそうだ。

これに対して、「5×3」でも「3×5」でもどちらでも良い、というのが「順序はないよ派」の主張である。
根拠としては、「順序を固定する根拠が無い(から順序はない)」と言うもののほか、「乗法には交換法則がある」というものが主流のようだ。

掛け算の計算について(交換法則は自明だよね)

 「掛け算には順序あるよ派」の人も、別に乗法の交換法則に対して異議申立てをしているわけではない*3。計算時に掛け算の交換法則が成り立つこと自体は認めている。
 というか、交換法則自体は証明可能なので、異議があるなら反証を挙げれば済む話であって、現状のようなややこしい議論はならない。
 かけ算の順序問題がこんなにもこじれているのは、おそらくその問題が数学的に定義可能な問題からはみ出ているためだ(というのが、僕の認識だ)。

順序問題の論点はなにか(文章と数式の変換の問題)

 かけ算の順序が問題になるのは、あくまでも文章題を数式に落としこむときのみだ。言い換えれば、問題になっているのは文章を数式に変換する際に、数値の属性が保存されるか否か、という点だ。一度数式に変換されてしまえば、その後は交換法則が適用されるため、当然、かけ算の順序は問題でなくなる。
 「順序あるよ派」の主張は、文章から数式に変換される際には、数値の持つ属性(1つのまとまりの数/まとまりの数)がかけ算の順序として表現されるべきだ、というもので、「順序ないよ派」の主張は、そんな情報は保存されない、というものだ。突き詰めるて考えると、この問題は文章題の立式の際に、どこまで情報が削ぎ落とすのか、という問題だといえるかもしれない。

立式とは抽象化である。

 文章題を数式に置きかえるとき、すなわち「1袋にみかんが5つ入っていて、袋は3つある」という文章を「5×3」と書き換えるとき、何が起こっているのか。
 そこでは、具体的な情報を計算可能な記号に抽象化する操作が行われている。先の問題で問われているのは、要するに「全部で何個か」ということであり、袋に入っているのがみかんであろうとりんごであろうと、あるいはみかんをまとめているのが袋であろうと箱であろうと、「全部で何個か」という部分には関係がない。したがって、こうした問題に応えるために不要な情報をそぎ落とし、必要な部分だけを最低限の記号で表現したものが、「5×3」、あるいは「3×5」である*4

抽象化によって情報は消える(変換の不可逆性)

 冒頭の例題に戻り、「1袋にみかんが5つ入っていて、袋は3つある」という情報を「5×3」と変換したとしよう。このとき、変換された数式から、どの程度情報が読み取れるだろうか。
 まず、「みかん」とか「袋」と言った情報は完全に消えている。「1皿にりんごが5つ乗っていて、皿が3枚」でも「5×3」だし、「縦5センチ、横3センチの長方形の面積」でも「5×3」だ。逆に言うと、「5×3」という数式から「1袋にみかんが5つ入っていて、袋は3つある」という文章を一意に特定することは不可能だ。その意味で、文章題から数式への変換は不可逆だ。

 さらにここで、「順序ないよ派」の立場を取ると、「5×3」でも「3×5」でも構わないため、かけ算の順序は情報を持たない。他方、「順序あるよ派」の立場を取ると、「5×3」という立式からは、「1つのまとまりの数」が5で、「まとまり」が3つあるということが読み取れる。
 ……かというと、実はそうでもない。というのも、世の掛け算には「1つのまとまりの数×まとまりの数」で表せないものが存在するためだ。例えば、先の長方形の面積。長方形の「縦」とか「横」とか言った区別は相対的なもので、長辺と短辺のどちらが縦でどちらが横といった決まりはない。したがって、「縦×横」と「横×縦」といった順序を区別することはできない。あるいは、「質量5kgも質点が、3m/sで移動している。質点の運動量はいくらか」という問いに対して、質量と速度のどちらが「1つのまとまりの数」でどちらが「まとまりの数」であるかを決定することはできない。
 したがって、「5×3」という数式から解釈できることは『「1つのまとまりが5のまとまりが、3つある」もしくは、「1つのまとまりの数×まとまりの数」という形で表現できないものが、5×3だけある』ということで、やはり文章を一意に特定できてはいない*5

 また、「順序あるよ派」の立場に立ったとしても、数式内の掛け算の順序が情報を持っているのは、立式直後の数式のみであり、その後、交換法則の適用を受けたりすると(あるいは、「交換法則の適用を受けた可能性がある」状態になると)、順序は意味を失う。
 いずれにしても、かけ算の順序が持つ情報というのは、非常に不安定なものだ。

ということで、順序にこだわる意味なくない?

 以上をまとめると、「文章題を数式に変換した時点で文章題の情報はほとんどが脱落するため、掛け算の順序を固定したところで意味はない」となる。別の言い方をすると、「文章を数式に抽象化する際に、「1まとまりの数」「まとまりの数」といった数値の属性情報はほぼ欠落するため、かけ算の順序は情報を持たない」となる。
 意味が無いのであれば、わざわざ順序を固定する必要はないと思うし、ましてや順序が違うことを理由に立式をバツにする根拠もないと思う。

余談1.「足が2本のタコ」だと思ってるのは教師だけだ、という話。

 asahi.com(朝日新聞社):2×8ならタコ2本足 - 花まる先生公開授業 - 教育
 順序あるよ派の人は、上の記事のような主張をするらしい。
 すなわち、「タコの足は8本です。タコが2匹いたら、足は全部で何本ですか」という問題に対しては「8×2」([本/匹]×[匹])が正解で、「2×8」は不正解だというのだ。その説明として、「2×8では、2本足のタコが8匹いることになります」と説明するらしい。しかし、それは「掛け算に順序あること」の説明としては成立していない。
 前述の問題に「2×8」と答えた生徒は、別に2本足のタコを想像したわけではなくて、かけ算の順序という規則を(そういう規則があるとして、)理解していないだけだ。したがって、そうした誤答(順序あるよ派の立場から見た誤答)を正す際に教師に求められるのは、「掛け算の立式には順序があること」と、「順序がどのように決められているかということ」の説明であって、「掛け算は「1まとまりの数×まとまりの数」という順序で立式しなければならない」ということを自明のものとして「2本足のタコ」が云々という話をすることではない*6。というかそもそも、「2×8」という数式から「2本足のタコが8匹」という文章に一意に遡行することは不可能だ。その生徒は、「一箱に2つのキャンディが入った箱が8つある」という文章を想像して「2×8」と立式したかもしれないではないか*7

 このタコの話は、「掛け算に順序がある」ことを前提とした場合、順序を取り違えると文章に再変換したときに文意が変わる、という主張なので、そもそも「掛け算に順序がある」という規則を理解していない、あるいは納得していない生徒を指導する場合には例として不適だ。そうした生徒には、「なぜ掛け算に順序があるのか」を説明するべきだろう。

余談2.理解度を知りたいだけなら、他の方法があるんじゃないか。

 「掛け算に順序がある」なんて主張がそもそもどこから出てきたのかはわからないが、一つの理由として、「問題文に出てきた数字を適当に立式している生徒を識別するため」というものは考えられる。
 掛け算のテストでは原則として掛け算の問題ばかりが出てくるので、問題文を読まずとも、文中に出てきた数字をとりあえず掛けておけば、たいてい正解になってしまう。これでは、文章を数式に抽象化する能力を判別することができない。そこで、「掛け算には順序がある」という規則を導入することで、文中の数字を掛けただけの答案(「1つのまとまりの数」と「まとまりの数」を区別できていない答案)はその一部をバツにすることができる*8
 もちろん、「掛け算に樹所がある」という主張が正当なものでなければ、こんな採点基準は認められない。

 文中の数字を適当に立式する、という回答を弾くためには、「掛け算以外の問題(足し算や引き算)」を混ぜるか、「文章題の中に、立式に使わない数字」を混ぜるのが手っ取り早いようにおもう。後者の例としては「みかんが3つ、りんごが4つ入った袋が5袋あります。みかんは全部でいくつですか」とか、「2つの箱のなかに、それぞれ3つずつ袋が入っています。袋の中にはそれぞれキャンディが5つ入っています。(1)袋は全部でいくつですか (2)1つの箱には、いくつキャンディが入っていますか」とか。

余談3.というか、順序が違うという理由でバツをもらった記憶が無い。

 冒頭の派閥チャートからもわかるように、実は「順序あるよ派」「順序ないよ派」の中にもいくつかの派閥がある*9
 そのチャートを見ると、「順序あるよ派」の中に「期間限定派」という派閥があって、その人達は、ある期間は便宜上順序があるとして教えたほうが良い、という立場のようだ。まぁ、そういう柔軟さはあっても良いと思う*10
 他方、期間限定派以外の人というのは、かけ算の順序には常に意味があると考えていて、例えば日常生活においても立式の順序を気にしたりするのだろうか。例えば、帳簿は常に「単価×数量」で記載されねばならないのだろうか*11。その場合、3つ以上の数の掛け算はどうなるのだろうか。例えば、「体積V[m3]、密度ρ[kg/m3]、比熱C[J/K/kg]の物質の温度をT[K]上昇させるのに必要な熱量はいくらか」という問題にはどのように立式するのだろうか(そしてその立式はどのようなロジックに基づいているのだろうか)。
 気になる気もするし、どうでもよい気もする。
 というか、式の意味をはっきりさせたいときは式に単位を付して書いたらいいと思う。

*1:「5+5+5」とか、「3+3+3+3+3」とか言った立式も、美しくはないけれど、あるにはある。

*2:「1つのまとまりの数」とか「まとまりの数」というのも曖昧な表現だけれど、これは単位が[a/b]×[b]の形にならねばならない、という意味だと考えられる。例題で言えば、5[個/袋]×3[袋]だ。

*3:行列などの演算では乗法の交換法則は必ずしも成り立たないけど、そういう話でもない

*4:前の節で「5+5+5」や「3+3+3+3+3」が美しくないと書いたのは、「最低限の記号で」という部分に抵触するかもしれないためである。ただ、「5+5+5」や「3+3+3+3+3」には抽象化として意味があるのでまだよいが、これが「5×3×1」とか「5+5+5+4-4」とかになると、明らかに無意味な操作が加わっているため、(少なくともそうした操作の根拠を説明されない限り)立式として誤りだと思う

*5:さらにいうと、仮に「1つのまとまりが5のまとまりが、3つある」と解釈できたとして、それになんの意味があるのか、というそもそもの疑問は残る

*6:というか、例題とともによくある誤答を紹介するのでなく、実際に生徒に解かせ、誤答した生徒の回答を取り上げて揶揄するという指導方法自体のに問題があると思うが、それは別の問題なのでここではこれ以上触れない

*7:冗談です

*8:たまたま順序が合う場合もあるので、全部をバツにすることはできない

*9:まぁ、このチャート自体冗談みたいなものなのだけれど

*10:高校物理では、量子論はひとまず置いておいて古典力学から習うのと同じようなものかもしれないし。

*11:ちなみに、グーグル画像検索で「単価×数量」、「数量×単価」でググったら、どちらの例もあった

まどマギ叛逆の物語の結末について(後編)

前編から)

 前編をまだ読んでいない人は、まず前編から読んでもらったほうがわかりやすいと思いますー。

まどマギ叛逆の物語の結末について - tailwisdom's blog

一応、前編の超あらすじ

ほむらの視点から

テレビ版では、時間遡行によって「この世界の別の可能性や結末」を数多く知っているほむらは、他の魔法少女と同じように「この時間軸(物語)」を生きることができず、そのためまどかとの距離が開いてしまっていた。しかし、テレビ版のラストでまどかが神になり、すべての時間軸を把握できるようになったため、ほむらの戦いはまどかに理解され、ほむらは救われた(ように見えた)。
しかし、ワルプルギスの夜を消し去ったあとは、ほむらは時間遡行をしなくなるため「この時間軸(物語)」の内部の存在へと回帰する。そのため、神まどかとは再びすれ違ってしまう。
叛逆の物語の序盤では、ほむらはまどかと同じ物語を生きる。それは幸せなことであったが、その幸せが魔女の結界の見せるニセモノ*1であることを知り、ほむらは魔女の討伐を決意する。しかしそののち、ほむらは魔女が彼女自身であったことを知る。
その後、インキュベーターの監視に気づいたほむらは、円環の理の秘密が暴かれること*2を阻止するため、円環の理に導かれることなく、魔女として死ぬことを選ぶ。
しかし、さやか、なぎさの機転によってインキュベーターの裏をかいたまどか達によってインキュベーターの結界は破棄され、円環の理の秘密が暴かれる危険はなくなった。そのため、ほむらは円環の理に導かれ、魔女ではなく魔法少女として死ぬことが可能になった。それによってほむらは、再び物語の外部でまどかと結ばれることができるようになるはずだった。

しかし、映画ではほむらは魔法少女として死にまどかと結ばれることを選ばず、別の選択を行った。
それはなぜか。
ここからが後編の内容。

4.インキュベーターの結界破壊後、円環の理からまどかを引き剥がす。

 ほむらが円環の理に導かれるのではなく、円環の理からまどかを引き剥がしたのはなぜか。
 ほむらの幸せを考えるなら、円環の理から不完全な記憶のまどかを引き剥がすよりも、円環の理に導かれることで、その眷属として別の時間軸の全てのほむらを知るまどかと行動を共にする*3方がが良かったはずだ。にも関わらず、ほむらはまどかを円環の理から引き剥がした。なぜか。

 その理由はシンプルで、ほむらの行動原理は「ほむらの幸せ」よりも「まどかの幸せ」を優先したためだ。もうすこし具体的には、さやかに忠告を受けたあとにまどかと出会ったシーンで、まどかが「遠くに行ってしまうなんて、寂しくて私にはできない」と口にしたためだ。まどかのこのセリフを、ほむらは「円環の理になることはまどかにとって幸せでない」と解釈した。
 そのためほむらは、神となり物語の外に出たまどかを、再び物語の内部へと引き戻す、という選択を行ったのだ。物語の外でひとりぼっちのまどか*4を、家族や友達のいる物語へと引き戻す。ほむらの世界改変は、どこまでもまどか本位に行われた*5

 ほむら視点から考えると、円環の理に導かれて神まどかとともに物語の外に出れば、過去を完全に共有するまどかとずっと一緒にいられた。しかし、ほむらは神まどかからまどかを引き剥がし、神まどかが持っていたほむらの戦いに関する記憶は失われてしまった。繰り返しになるが、もしほむらが彼女の我欲を優先したのであれば、神に叛逆する悪魔になるより、魔法少女として死ぬことを選んだはずなのだ。

ほむらの世界改変によって、まどかとほむらは再び物語に復帰した。しかし。

 ほむらの行動原理は、どこまでも「まどかの幸せ」が優先される*6。そうした行動原理を思えば、テレビ版から叛逆の物語まで、ほむらの行動はほぼ一貫している。だから、僕は叛逆の物語におけるほむらの行動はそうあるべきものだと思う。

 ただ、叛逆の物語のほむらの行動で、納得できないことが1つだけある。
 それは、せっかくまどかを物語内に引き戻したのに、悪魔ほむらが物語の外部にいるかのように振舞っていることだ。テレビ版開始時点から叛逆の物語終了時点までで、ほむらとまどかが同時に物語内部にいる、という状況は実はこれが初めてだ*7。それはつまり、ほむらにとってはじめてまどかと対等に関係を構築できるチャンスだ。
 悪魔ほむらは時間遡行者ほむらと違って、インキュベーターワルプルギスの夜からまどかを守る、という使命はない。そのため、時間遡行者ほむらのように「まどかの幸せのために行動を最適化した結果、まどかとまともにコミュニケーションが取れない」ということはないはずだ。ワルプルギスの夜を消し去り、インキュベーターの結界を破り、ソウルジェムの形を作り替え、世界の理を書き換えることでようやく掴んだ「まどかと物語をやり直すチャンス」をそんなふうにフイにしてしまうのは、あまりにも惜しいのではないだろうか。

 ……とはいったものの、自分が作り替えた世界で、あたかもいち登場人物のように振る舞うのは厚顔無恥かもしれない。円環の理から引き剥がされたまどかは多くの記憶を失っているため、ほむらとの情報は非対称で、それ故そこに対等な関係は築けないかもしれない。すくなくとも、ほむらからまどかに近付くのは、フェアでないかもしれない。
 もし、ほむらにそんなことが出来る程度の図々しさがあったなら、彼女は世界改変をしたりせず、魔法少女として死ぬことを選んだだろう。まどかの孤独に気づいていないふりをして、あるいは「私がまどかの孤独を埋める」と決意して。しかし、ほむらは純粋さゆえか、潔癖さゆえか、そうした図々しさが発揮できない。その生真面目さと不器用さこそがテレビ版ラストにおける奇跡を生んだのだけれど、一方で叛逆の物語におけるほむらの救われなさもその生真面目さと不器用さに起因している。

 ほむらがほむらのままで、どうすれば幸せになれたのかはよくわからないし、ほむらがほむらのままである限り、新編まどマギがどれだけ続いても、ほむらが幸せになることは無いような気がする。
 だから、ほむらには変わってほしいと思う。魔女もインキュベーターも脅威ではなくなった世界では、彼女の幸せを妨げるものはおそらく彼女自身しかいないから。

*1:必ずしもニセモノではないのだけれど、いずれにせよ、ほむらとしては魔女のつくった世界を認めることはできない。

*2:そしてまどかがインキュベーターに利用されること

*3:さやかやなぎさのように

*4:実際には、さやかやなぎさや他の元魔法少女がいるようだが

*5:そう考えると、さやか(やなぎさ)までもが物語へと復帰したのも、まどかを迎える物語の内部の空白を埋めるためかもしれない。

*6:より正確には、「ほむらが思うところのまどかの幸せ」が優先される。この辺りの微妙な齟齬が、ほむらのヤンデレ感の理由だと思う

*7:過去の回想シーンと、魔女ほむらの結界の内部を除けば