tailwisdom's blog

tailwisdomのじゆうちょう

まどマギ叛逆の物語の結末について

全編を通しての感想は前の日記に書いたので、ここでは書き漏らしたことを。

『まどか☆マギカ 叛逆の物語』 ネタバレ感想 - しっぽの知恵袋 -読書とか雑記とか-

一応ことわっておくと、思いっきりネタバレです。

結末について

 叛逆の物語の後半はどんでん返しに次ぐどんでん返しで、様々な結末があらわれては消えていった。
 結局、映画ではああいう結末になったわけだけれど、では他にどんな結末が考えられたか、について考えてみた。

1.魔女の結界にとどまり続ける。

 映画としてはバッドエンドもいいところだけれど、登場人物たちはみんな幸せになれそう。
 ほむらにはまどかがいるし、杏子にはさやかがいるし、マミさんにはべべがいる*1。平和な日常を送りつつ、夜には魔法少女としてナイトメアと戦うことで街の平和を守る。実際、そんな日常系(?)まどマギも見てみたかったような気もする。

 このラストが選択されなかったのは、もちろんほむらがそれを許さなかったからだ。その理由は実は微妙に解釈が難しいのだけれど、たぶんこういうことだろう。すなわち、ほむらはそもそも魔女が存在すること自体を問題にしていた。なぜなら、まどかの願いは「すべての魔女を、生まれる前に消し去りたい」だったからだ。であれば、魔女の存在に気づきながら、その結界の内部でまどろむことは、ほむらにとって許し難い裏切りだろう。

2-1.結界内で魔女となり、そのまま倒される。

 バッドエンド。
 この結末を迎えるためには、ほむらが何らかの手段で円環の理の適用を排除する必要がある。神まどかが降臨してからその救済を拒否することは難しそう*2なので、あるとすれば魔女ほむらの結界から、まどかたちを弾き出すことだろう。もっとも、まどかたちを弾き出そうとすれば、間違いなくインキュベーターの妨害が入っただろうから、実現可能性は低そうだ。


2-2.結界内で魔女となり、魔法少女たちに勝利する。

 さらにバッドエンド。
 前項同様、円環の理の適用を排除する必要があるので、実現可能性は低そう。

 ただ、もし円環の理を遮断できた場合、ほむらの魔力は相当に強大であるはずなので*3、他の魔法少女では倒せない可能性もある。実際、本編でも円環の理から引き出した歴代魔女(?)の力を駆使してほむらに対抗していたところを見ると、魔女ほむらの討伐はなかなか難しそうだ。
 他方、いくら魔女化したとはいえ、ほむらはまどかを倒せるのか、という問題もある。魔女化=狂気に冒される、と考えれば、それも可能性があるのかもしれないけれど、まどかを守るために魔女化してまで円環の理の秘密を守ったのに、その結果まどかを殺してしまったとしたら、これほど救われない話もないだろう。そんなことにならなくてよかった。

3.インキュベーターの結界破壊後、円環の理に導かれる。

 考えようによってはグッドエンド。もしかするとトゥルーエンドかもしれない*4
 円環の理に導かれた場合、おそらくほむらもさやかやなぎさのように、魔女化した*5少女たちの一員として、神まどかとともに存在できただろう。そしてそうすることは、ほむらにとって少なくとも2つのメリットがあった。1つは、「ずっとまどかと一緒に存在し続けること」。もう1つは、「ほむらが繰り返してきた時間遡行のすべてを把握しているまどかに会えること」。
 ほむらにとって、後者のメリットはとても大きいはずだ。テレビ版のラストでほむらは、「時間遡行を繰り返すたびに、わたしとまどかの時間はどんどん離れていく」というようなことをいう。それは時間遡行を繰り返すことでまどかを救おうとしたほむらが背負った業であって、ほむらの思いとまどかの思いがすれ違う最大の要因だったはずだ*6。テレビ版の結末をほむらの視点から見ると、「まどかを助けることはできなかったけれど、これまでほむらがその時間軸上のまどかを守るために繰り返してきた戦い」がようやくまどかに共有され、「時間遡行を繰り返すたびに離れていった」まどかとの距離がようやく埋められたのだ。それこそが、ほむらにとっての救いだった。

 ほむらの時間遡行能力は、ノベルゲームでバッドエンドに至ったプレイヤーがリセットしてやり直す行為に近い。そのため、時間遡行能力を行使した時点で、ほむらは物語のキャラクターというよりも、並列する無数の物語を俯瞰的に眺めるプレーヤーとしての立場に移動してしまった。端的にいえば、まどかたちの物語の「外」へと移動してしまった。ほむらが吐露する「まどかとの距離」はその移動によって必然的に生じたものだ。
 テレビ版のラストをほむら視点で見ると、物語の外に移動してしまったほむらが、まどかも物語の外に移動することによって救われる、という話だといえるかもしれない。

 そのため、まどかによる世界改変後、時間遡行能力を使わなくなった(=ふたたび物語の内部に戻った=神まどかとして物語外部の存在となったまどかとは再びすれ違った)ほむらが、円環の理に導かれることで再びまどかとの再会を得る、というのは、ほむらにとっては救いとなるはずだった。

 では、映画本編ではなぜそうならなかったのか。


(後編に続く)

*1:これは余談だけれど、叛逆の物語におけるべべって、実は「別にいなくてもストーリーが成立する」キャラクターで、もっと言えば「いないほうが自然」なキャラクターだと思う。にもかかわらずわざわざ新キャラクターとしてなぎさを投入した理由ってたぶんふたつあって、ひとつは「ナイトメア世界がニセモノだと気づいたほむら(と観客)の目を引きつけるための囮」で、もうひとつは「まどほむ、さや杏(順不同)のツーペアからあぶれたマミさんをぼっちにさせないための賑やかし」になる。ただ、そう考えるとべべとの偽の記憶に浸ってるマミさんがすごく不便に思えるので、なんとか正史でもマミさんとなぎさが仲良しみたいな過去を作って欲しい。そういう薄い本があったら読みたい。

*2:本編のほむらはそれをやってのけたのだけれど、魔女化したほむらにはそれは難しいのではないか。また、仮にそれが可能だったとして、インキュベーターの結界内にまどかを引きこむようなことをほむらはしないと考えられる。

*3:因果の大きさが魔力につながるなら、まどかを因果の”かなめ”にする過程で、ほむら自身にも相当の因果が蓄積しているはずだ。ただし、魔法少女になったあとの因果の大きさが魔力に反映するかどうかはよくわからないが。

*4:僕はそう思わないけれど

*5:魔女化するところを円環の理に救われた

*6:そして、そのすれ違いを受け入れた(あるいは少なくとも、すれ違いの解消よりもまどかの生存を優先させた)結果が、テレビ版ルートでのほむらの態度なのだろう。はじめの方の周回では、まどかとほむらはともに戦っていたし、友情も育んでいるなど、テレビ版ルートのほむらとは明らかに振る舞い方が違っていた。

勉強をするためにするべきこと

夏休みの勉強について、朝日新聞に不思議コラムが出ていたそうなので、便乗してちょっと考えてみる。

朝日新聞「子供のご両親はゲーム機を偶然装って踏んづけて壊したっていいんです」 - Togetter

コラム自体を読んで思ったのが、勉強する上で一番重要な、「勉強をするためのモチベーションの調達」についてほとんど触れられていないなぁということ。だれだって、勉強をすれば成績が上がったり受験で有利になることはわかっているわけで、「でも勉強したくない」という気分をいかにして無くすかが重要なんじゃないだろうか。
特に夏休みの場合、ふだんの学校の授業や宿題のように、『義務』として課される勉強が少なくなる。コラムでは、そうして学校が休みになることでぽっかり空いた自由時間に、ゲームをするのではなく自主的に勉強しろ、と主張されている。

だけれど、特に小中学生にとって、「勉強するべきだ」という前提条件は所与のものなのだろうか。

勉強ができる子にとっては、勉強はそれほど苦痛ではないだろう。むしろコラムにあるように、難問が解ける快感や、勉強をすることで褒められる快感というのがあるかもしれない。そういう意味では、娯楽として勉強ができる可能性もある。しかし実際には、「勉強しなさい」と口を酸っぱくして言われるのは、往々にして勉強ができない子だ。彼らにとって、勉強は苦痛以外の何物でもない。おもしろくもない参考書や問題集とにらめっこしてつかれるくらいなら、ゲームをして遊んでいたほうがはるかにマシだろう。

「勉強ができない」というとき、そこには大きく分けて2つのパターンがあると思う。1つは、「勉強しないといけないのはわかっているが、集中力が続かない」というもの。試験期間になるとつい部屋の掃除をしてしまう、とかそういうやつだ。これについては、本人が勉強する理由を持っているため、比較的問題は簡単だ。集中できるように、勉強できる環境を整えてやればいい。
具体的には、自習室などの静かで気が散らない場所に行く、マンガやゲームやケータイから物理的に遠ざかる、自分にあったレベルの参考書や問題集を選ぶ、目標を設定して取り組む、と行ったところだろうか。たぶん、ライフハック系のサイトを眺めればこの手のアドバイスは山ほど出てくる。

しかし、「そもそもなんで勉強しないといけないのかわからない」というような、勉強する理由が本人の中に無いパターンの場合はすごく難しい。こちらのタイプは、勉強をするための環境を整えることがすでに不可能に近い。
勉強をしようと決意した人なら、気が散るからとケータイを家に置いて自習室に行くことはそれほど難しくない。だけれど、勉強をしたくない人は、自主的に自習室に行ったりはしない。マンガやゲームから遠ざかる理由もない。
相手が子どもなら、それでも無理やり勉強させることができるかもしれない。僕も、子どもの頃には親に無理やり勉強させられて、泣きながら勉強したことがある。泣きながらというのは比喩ではなく、ノートに涙を垂らしながらドリルを解いたりした。僕は小学生の頃は勉強が大嫌いだったから、「宿題が終わるまで遊ばない」という家のルールとしょっちゅう衝突していた気がする。
ただ、そうやってしぶしぶ勉強をする場合、勉強というのはノルマをこなすための作業に過ぎないから、とうぜん勉強の効率はすごく低い。机に向かっていても、意識の半分は勉強を強制している相手を呪い殺すために使われているだろう。

「偶然を装ってゲーム機を壊された」子どもが、「じゃあ仕方ないから勉強しよう」と思うはずはない。ゲームの代替として勉強が出てくるくらい、勉強に対する意欲がある子どもなら、そもそもゲームを破壊なんてしなくても、勉強することはできるだろう。
他方、勉強を全くせずにゲームをしている子どもが、「偶然(を装って)ゲーム機を壊された挙句、勉強を強制された」ら、その理不尽さに怒り狂っても不思議ではない。彼らにしてみれば、両親には「ゲーム機を壊した」という過失があるわけで、その過失は「勉強を強制される」ことに対する反発を倍加させるだろう。端的に言って、勉強させるためにゲーム機を壊すことは、明らかに逆効果だ。

偶然を装ってゲーム機を壊すくらいなら、まだ「勉強をしないこと」のペナルティとしてゲーム機を隠すことの方が有効だろう。ゲームと勉強を天秤にかければ、少なくとも「ゲームをするためのコストとして、仕方なく勉強をする」という動機付けにはなる*1。ただし、「友達の家にゲームをしにいく」「ゲーム以外の娯楽を探す」といった方法で勉強することを回避することは当然考えられる。「相手が嫌がる勉強を、無理やりさせる」という方法を取る限り、両親と子どもは敵対関係になるから、子どもはあらゆる手段で抵抗を試みるだろう。


ではどうするかというと、原則としては勉強をする動機づけを与えるしかないのではないだろうか。両親が子どもに勉強を矯正するということは、少なくとも両親は、「子どもは勉強をするべきだ」と考えているはずだ。そうであれば、なぜそう考えているのかを説明し、子どもを説得するところからはじめなければならないだろう。
その方法については、たぶん色々なケースがあるので一般的に語ることは難しい。ただ、「勉強するべき理由」を説明できないおとなが「勉強しなさい」といくら言ったところで、虚しいだけだと思う。



「こんなこと勉強して何の役に立つの?」と聞かれた時、言葉を尽くせない大人が知性を殺す: 不倒城
404 Blog Not Found:「こんなことも出来ないお前は何の役に立つの?」が最凶な理由

*1:もちろん、そういう強権的な方法を取れば、子どもはたぶん勉強と両親が嫌いになる。

東京-大阪間を安く移動したかった。

8月もそろそろなかばに入ろうという季節、帰省や旅行など、長距離移動をする機会も増えると思う。

かくいう僕も、東京-大阪間を移動する用事ができたので、どうせならなるべく安くあげようと思っていろいろ調べていた。
快適性や所要時間を無視すると、一番安くあがるのは基本的には夜行バスだ。

夜行バス

夜行バス、今は4列シートと3列シートの2種類が主流らしく、4列シートは2:2の座席で、3列シートは1:1:1の座席らしい。1人で夜行バスに乗る場合、4列シートだと隣に人が乗ってくる可能性があるが、3列シートならその心配は無い。快適性の点では、3列シートの方がだいぶいいらしい。
その代わり、もちろん3列シートのほうが値段は高い。僕が調べた感じだと3列シートにすると1000~2000円くらいは余分にかかるようだ。夜行バスの値段がそもそも4000~8000円くらいなので、この差は意外と大きいかもしれない。

夜行バスの割引としては、3日前、5日前の予約による早割(繁忙期はやっていないことが多い)や、ネット予約による割引(割引率は数%と低い)の他、JRの夜行バスには学割もあるようだった。割引が使えれば、3列シートで6000円台というのもそんなに珍しくもないようだ。
僕はこのサイトで夜行バスを探したのだけれど、残念ながら僕が探した時点では、すでに満席のバスがほとんどだった。
夜行バス比較なび 全国の夜行バスの最安値情報


青春18切符ムーンライトながら

長期休暇期間限定の技として、ムーンライトながらの利用が挙げられる。
ムーンライトながらというのは東京-大垣間の夜行列車なのだけれど、青春18切符と指定券の併用ができるという非情にコスパのいい電車だ。貧乏旅行の手法としてはかなりポピュラーな方法なので、ググると様々な情報が手に入る。
おすすめはこのサイト。
ムーンライトながらガイド

18切符(一日分2300円)+指定券(510円)+0時を過ぎる最初の駅までの乗車券(1000円程度)という、4000円弱で東京-大垣間が移動できるというすごい電車である。
しかも、夜行電車なので大垣到着(東京到着)は早朝であり、ムーンライトながらの乗車に利用した青春18切符はその日1日有効である。その気になれば、さらに在来線を乗り継いで移動できる。

青春18切符というのは、学生の長期休暇くらいの時期限定で売られる5枚綴りの1日乗り放題券で、5枚で11500円という非常にお得な切符だ。名前のイメージに反して年齢制限はなくて、子供から大人まで利用できる(逆に、小児料金もないらしい)。
5枚綴りといいつつ、5枚に分割できるわけではなく切符は1枚のカードになっているので、分割して利用することはできない。でも、1人で5日分使うほかに、5人で1日分で使ったりもできる(切符は1枚なので、当然5人がまとまって移動する必要がある)。
基本的に特急券とかとの併用はできないのだけれど、在来線を乗り継ぐ根気があれば、かなり安く長距離を移動できる。

しかし、僕が探した時点では、残念ながらムーンライトながらは満席だった。
時間があったら昼間に普通電車を乗り継いでいっても良かったのだけれど、今回はスケジュールの都合上、あんまり移動に時間をかけられなかったため、青春18切符も今回は候補から外した。


飛行機

意外とダークホースなのが飛行機だ。最近はLCCとかもあって、おどろくほど安く移動できたりする。
ただ、飛行機を利用する場合に気をつけなければいけないのは、空港から都市部までの移動がけっこう大変だということ。空港から空港までは新幹線と比べてずっと安いし早いのだけれど、出発地から空港まで、空港から目的地までの移動を加味すると、新幹線とそれほど差がなかった、という罠があったりする。
飛行機を利用する場合、特にLCCを使う場合は、予約のタイミングがすごく重要だ。早めの予約に割引があったり、突発的に割引キャンペーンがあったりするらしい。僕の友達の旅行好きな子は、LCCのサイトやついったーを頻繁にチェックしているらしい。

今回は、空港経由の移動が面倒だったの除外した。


新幹線

いろいろ検討したが、結局いちばんコストの高い新幹線に落ち着いた。
新幹線は一番速くて快適なのだけれど、やはりそのコストがネックだ。
ただ、新幹線にもいろいろとお得なサービスがあるらしく、JRのサイトを眺めていると、多少安く新幹線に乗る手段はいくつかあるようだ。
僕は、ぶらっとこだまというシステムを使ってせめてもの節約をしてみた。

ぷらっとこだまエコノミープラン|京都 旅行をはじめ新幹線のお得なツアーはJR東海ツアーズ
これだと、東京-新大阪間が10000円になる。JR所定運賃よりも3750円安いらしい。しかも、ワンドリンク付きだ。(どうでもいい。。。)
繁忙期だと11500円になって、差額も2450円と控えめになる。
ちなみに、ぶらっとこだまだと何故かグリーン車も安くて、+1500円でグリーン車に乗れる。ふつうにグリーン車に乗るなら5000円近く必要なので、これはなんだかお得感がある。

他に選択肢もなかったので、僕も今回はぶらっとこだまを利用した。しかも、ふつう車両に空きがなかったので、グリーン車だ。
当初の予定よりもかなりリッチな移動になってしまったけれど、まぁ受け入れて贅沢な旅を楽しもうと思う。


結論。事前の計画が節約につながる。

いろいろ調べた結果、移動のコストを下げる工夫は無数にあることがわかった。
安く済ませるだけなら夜行バスかムーンライトながらが最強だけれど、新幹線も工夫すれば少しお得に快適な移動ができる。
僕は飛行機があんまり得意ではないので今回は早い段階で除外したけれど、飛行機も実はポテンシャルが高い*1

いずれの手段を使うにせよ、お得に旅をするためにもっとも重要なことは、早く日程を決めて座席を抑えることだ。
夜行バスにせよムーンライトながらにせよ、予約の開始は概ね一ヶ月前だから、確実に座席を抑えるなら、7月に入る頃には予定を確定させておかなければならない。ぶらっとこだまを使って新幹線に乗る場合ですら、繁忙期は1週間前の予約ではギリギリだった。

兵は拙速を尊ぶというけれど、旅の計画も拙速を尊ぶようだ。

*1:とはいえ、飛行機を使った貧乏旅行の真骨頂は、海外旅行や沖縄、北海道などへの長距離移動だろう。

道徳教育とニセ科学

 「水からの伝言」っていう有名なニセ科学がある。
 どういうものかというと、「毎日『ありがとう』と聞かせた水は、他の水と比べて結晶(氷)が美しくなる」というもの。詳しくはwikipediaあたりを参照して欲しい。

 もちろん、水に言葉をかけたからといってその結晶構造が変化することはない。だけれど、「水からの伝言」は、教科書に載っていたこともあるらしい*1
 その教科とは、理科ではなく、道徳である。
 つまり、水からの伝言は、科学的事実ではなく、「いい話」として利用されたわけだ。
 さて、これはアリだろうか。なしだろうか。

 僕個人の間隔としては、道徳教育にフィクションの「いい話」を使うことは特に問題だとは思わない。道徳というのは自然界の物理的な法則ではなく、人間社会の特定の文化圏において推奨される価値観だからだ。そこで提示されるのは、「こういう振る舞いって美しいよね」という理想であって、それが理想である以上、それ自体ある意味でフィクションである。よく暴力的なフィクションが「子供の教育に良くない」と言われたりするけれど、裏を返せば「いい話は子供の教育に良い」ということになる。実際、絵本や子供向けアニメの基本は勧善懲悪だ。

 しかしながら、いくら道徳教育といえど、「科学的に間違った主張」を教えるのはいかがなものかとも思う。
 それは第一に、理科の授業内容と整合しない。「理科は理科、道徳は道徳」という人もいるかもしれないが、学校の授業というのは勉強のための勉強ではなく、実生活を送っていくための常識を学ぶというものであるべきだから、やはり教科によっていうことが違うというのは悪かろう。
 そして第二に、フィクションの「嘘」がいい話の「嘘」に強く結びついてしまっているように見えるのが気になる。勧善懲悪の小説を「いい話」として紹介したのなら、そのお話がつくり話であることと、そのお話がいい話であることは両立する。僕たちは、つくり話だとわかっている小説や映画に感動できるし、ときにそれらは僕たちの価値観を変える。だけれど、「水からの伝言」はどうだろうか。「良い言葉をかけると結晶が美しくなる」というのがそもそも嘘である場合、僕たちは水からの伝言に感動できるだろうか。

 「水からの伝言」のズルいところは、まるで科学的な根拠があるかのように見えるところだ。僕が冒頭で、「水からの伝言」を「非科学」ではなく「ニセ科学」と読んだのは、そういう意図がある。「科学的な根拠がありそうに振舞っているけど、実際には科学的な裏付けはない」ことが問題だと思う。はじめっから嘘であることがわかっているフィクションについて、あえてとやかくいう事はない。

 「ありがとう」といったことばがきちんと使えることは、人間関係や社会生活を構築する上で、きっと役に立つ。だから、「お礼はきちんと言おう」という教育を行うこと自体は悪いことではないと思う。ただ、そのための教材にニセ科学を用いるのは筋が悪くて、場合によっては教育の効果を台無しにしてしまうのではないかと思う。
 やはり、道徳教育に使うにしても、もっと別な「いい話」を使ったほうが良いと思うのだ。

*1:未確認。補助教材として使われただけかもしれない。

事実を積み上げるということ

 科学技術社会論という学問分野がある。
 その内容はググってもらうとして、科学技術社会論の分野で頻出する用語に、『欠如モデル』というのがある。

 欠如モデル。なんだか不穏な用語だけれど、その意味はそれほど難しくない。
 要するに、「無知なお前らに専門家様が『正しい知識』を教えてやるよ」みたいな傲慢な態度はウザい、という意味*1で、従来の科学コミュニケーションのあり方に対する批判である。
 従来の科学コミュニケーションは、啓蒙的なコミュニケーションで、たとえるならば教師が生徒に授業をするように、専門家が持つ「正しい知識」を効率よく市民に伝えることを目的としていた。だけれど、このやり方はあるとき*2大失敗する。その失敗がどういうものかというと、「専門家が科学的に正しい話をしているのだけれど、みんなまったく聞いてくれない」というもので、いまの日本の状況に似ている。

 ではなぜ、みんなは専門家の話を聞かないのか。欠如モデルの説明によると、啓蒙的なコミュニケーションというのは、次の条件が全て満たされたときに初めて効果を持つ。
1.市民の直面している問題が、専門家の知識のみによって解決可能である。(問題の種類)
2.専門家が、必要な知識を持っている。(専門家の能力)
3.市民が、専門家を信頼している。(市民の専門家に対する信頼)
 イギリスの狂牛病の例でいうと、政府ははじめ「狂牛病は人間は感染しない」と広報していたのだけれど、あとになって人間にも感染することがわかった(専門家の知識が間違っていた→条件2に抵触)。そのため、市民は「政府は牛肉を売るために狂牛病は安全だと嘘を付いている」と感じた(条件3に抵触)。そのため、「みんなが専門家の話を聞かない」という状況に陥った。いまの日本でも、「政府・東電は嘘を付いている」「マスコミは本当のことを報じない」と固く信じて疑わない人はときどきいる。逆に、「反原発派はみんな放射脳の馬鹿だ」と信じて疑わない人もときどきいる。

 欠如モデル批判の要点は、2つだといえる。1つは「コミュニケーションの前提には、ひとまず互いの信頼関係が必要だ」ということ。もう1つは「信頼関係の構築のためには、正しい情報を適切な文脈で伝えることが重要だ」ということ。言い換えると、嘘つきや自己中心的な人は信頼を失って話を聞いてもらえない、ということだ。 そしてひとたび信頼を失ってしまうと、もはや発言の内容は考慮されず、「この人は信用出来ない人だから」と問答無用で切り捨てられる。『御用学者』とか『放射脳』とか言ったレッテルが貼られた時点でコミュニケーションの可能性はなくなる。

 だけれど、当然ながら対立する相手にレッテルを貼ってコミュニケーションのチャンネルを閉じれば、議論はまったく進展しない。議論できないので対立は解消されないまま放置されるから、一方で大飯原発が再稼働し、他方で官邸前のデモが起こり、チグハグな状況が発生する。事故から2年以上が経つのに、原発を巡る対立は深まり硬直するばかりだ。
 そうした状況を打開するために、まずはコミュニケーションのチャンネルを開くことが必要だと思う。原発推進派の人も脱原発派の人も、ひとまずは自分の主張をいったん自分の心の中にしまって、原発について、いまどんな論点があるのか、調べてみてはどうだろう。別に、主張を変えるべきだとは思わない。だけれど、自分の立場を人に説明して相手を納得させることができるように、『相手も納得できるソース』を示すことは重要だと思う。極端な主張をしている人の発言は、なかなか信用しづらいものだ。

 ところで、欠如モデルを批判した科学技術社会論は、啓蒙的なコミュニケーションに代えてどのようなコミュニケーションを提案しているのだろうか。具体的な手法としてはいろいろと異動もあるんだけれど、その共通項として「双方向性の重視」はあげられると思う。専門家はひとまず市民の側に立って、市民の疑問や不安に答える形で科学的な知識を提供するべきではないか、ということだ。
 原発推進にしても脱原発にしても、「なぜそういう主張をするのか」を、意見の違う相手の疑問や反論に答える形で説明することが、ひとまず必要なのではないかと思う。

*1:これはすごく乱暴な要約だが。

*2:科学技術社会論のテキストでは、よくイギリスでの狂牛病遺伝子組み換え作物の例が引用される。

期日前投票してきた。

 投票日に投票に行くのが難しそうなので、期日前投票に行ってきた。
 ので、選挙に関して雑感とか。ちなみに、僕がどこに投票したとか、どの論点を重視して投票したとかは書かないつもり。

状況とか

 参議院に解散はないから、きまって3年毎に半分ずつ改選される。ということは、今回改選されるのは前々回の参議院選挙で当選した議員たちだ。その選挙では自民党の改選議席37に対し民主党60と民主が大勝したので、今回の選挙では、現職の民主党議員の議席を自民党が奪いに行く構図になる。
 ちなみに今回の改選とは関係ないけれど、前回の参議院選挙では民主党44議席に対し自民党が51議席と、自民が勝利している。これは民主の選挙戦略の失敗もあるようだけれど、当時与党だった民主党はすでに失調気味だったようだ。


でまぁ、そういうのをなんとなく踏まえつついろいろ。

選挙区選挙の投票

 選挙区選挙は死票が多い。
 例えば、定数が1人の選挙区に5人の立候補者がいて、100万票の有効投票があったとする。もし仮に各候補者がだいたい均等に得票したなら、平均してひとり20万票獲得する計算だから、20万票と少しを獲得した候補者が当選する。そうすると、有効投票100万票のうち残りの80万票弱は死票になる。つまり、死票のほうがはるかに多い計算だ。もちろん、選挙速報なんかを見ればわかるように、各候補者が均等に得票することは少なくて、1位の候補が2位以下の候補に倍近い得票をすることも珍しくない。特に、現職の候補者の地盤が強固だったりする選挙区ではその傾向は強いと思う。

 そういう選挙区選挙の場合、泡沫候補に投票しても単に死票になる可能性が高い。だから、自分の投票が死票になるのを避けるためには、ある程度当選の目がある候補の中から、いちばん支持出来る人を選ぶべきだと思う。
 例えば定数(当選者数)が1であれば、現職候補と有力な対立候補という構図になりがちなので、このどちらかから選ぶことになるのではないだろうか。3番手以降の候補に投票しても、その候補が得票数1位になることはあまり期待できないかもしれない。
 定員が2人以上の選挙区では、少し複雑になる。この場合も泡沫候補は選択肢から除外していいのだけれど、残った候補者の誰に入れるかについて、少し工夫の余地がある。例えば当選が確実視される候補がいる場合、その候補も選択肢から除外することが考えられるからだ。どういうことか。
 泡沫候補を除外するのは、その候補に投票してもその候補が落選し、自分の票が死票になる可能性が高いからだ。同様に考えると、複数定員の選挙区で当選が確実視される候補がいる場合、自分が投票してもしなくてもどうせ当選するならば、その候補への投票も、言ってみれば(広義の)死票のようなものだ。だから、自分の投票の効果を最大化するには、当落線上の候補(例えば、定数3の選挙区なら、3番手と4番手の候補のどちらか)に投票するのが有効になる。

 もちろん、以上の考察はある程度各候補者の得票数が推定できる場合で、かつ支持する候補者に選択肢がある場合だけだ。当落線上にいる候補者が誰かわからない場合や、支持ずる候補者が1人しかいない場合、ともかくその支持する候補者に投票するしかない。
 でも、無党派層の人なんかは、投票先を決める際に考慮に入れてみてはどうだろう。

比例代表選挙の投票

 比例代表制死票が少ないため、あんまり戦術を考える余地はない。支持政党に入れたらいいと思う。
 あえて言うなら、非拘束名簿方式を利用して、政党内での当選順の変更を試みるくらいだろうか。その場合は、支持政党内で当落線上の議員の名前を書くのが有効だろう。当選や落選が確実視されている候補者にあえて投票するのは、あんまり意味が無い。


支持する候補はいないが、落選させたい候補がいる場合

 マイナス票を投じることはできないので、対立候補を押し上げることで相対的にその候補を落とすことを狙う。本来落選する候補を当選に押し上げることで、入れ替わりに落選させるわけだ。ふつうに支持候補に投票するよりも精密な得票数の予想が必要だから、あんまり有効な方法ではないと思う。
 選挙区選挙では、当落線上の対立候補に投票するのが有効だろう。落としたい候補が複数定員の上位にいる場合はひとり押しあげても足りないけれど、かといって他に有効な手立てはない。
 比例代表の場合、対立政党に入れるか、政党内での順位変動を狙うかといった2択がある。前者のほうが堅実で、後者はけっこうリスキーだ。もし後者の投票行動を取る場合、落としたい候補のすぐ下の順位の候補に投票することになる。それで順位変動が起これば見事成功だけれど、順位変動と政党の獲得議席数の増加が同時に起こったら無意味だし、順位変動が起こらなかったら逆効果だ。
 基本的には、ネガティブ効果を狙った投票は難しいと思っていいと思う。

1票の力

 ここまでつらつら投票戦術について書いておいてなんだけれど、ひとりの投票行動が選挙結果を左右することはまずない。だから、自分が投票するときには、他の人も自分と同じような投票行動を取ってくれることを祈りながら投票することになる。あるいは、もっと積極的に他の人を説得する事もできるかもしれないけれど、僕はそこまで政治や選挙にコミットできない。

棄権とか白票とか

 投票を棄権する権利も白票を投じる権利もあるので、まぁ好きに行使したらいいと思う。
 ただ、棄権や白票って要は死票なので、政治に対する影響力はないだろう。たまに白票を「不信任の表明」という人がいるけれど、例えば仮に過半数の投票が白票だったとしても、別に選挙がノーゲームになったりするわけではなく、残った有効投票によって当選者が決まるのだから、少なくとも選挙のシステムは白票も棄権も区別されない。あえて言うなら、白票ならば年代別投票率なんかの算出上は投票扱いになるくらいか。

出口調査

 期日前投票だからか、出口調査はたくさんいた。
 試しに受けてみたら、「年代」「性別」「投票した政党(選挙区と比例のそれぞれについて)」「選挙とは関係なく支持政党」「前回投票した政党」あたりを聞かれた気がする。正直に答えたのだけれど、マスコミの投票者像をコントロールしたければ、嘘を答えてもいいかもしれない。例えば、選挙区選挙でいちばん支持する候補でなく2番目に支持する候補に投票した場合なんかでは、いちばん支持する政党を答えておくのもまぁ許容範囲なのではないだろうか。ダメかな。ダメかも。

選挙の限界とか

 各候補や政党の政策なんかを聞いて、もし自分の考えに完全に合致する候補、政党があるならハッピーなのだけれど、そうではないときはけっこう悩ましい。また、言ってることは正しそうだけれど、それを実現する手腕に疑問符のある候補や政党というのがあるかもしれない。そう考えると、投票による意思表示といっても、「俺はハンバーグが食べたいのにメニューにはパスタしか載ってないんですが」みたいな状況に陥ったりする。というか、僕の場合はたいていの選挙においてそんな感じだ。
 まぁ、間接民主主義を採用する以上そういう限界は当然存在するのだけれど、これはなんとかならないものか。政治家の能力が全体的に上がれば、もう少し悩むことは減るかもしれない。

環境を整えるということ

ライフハック系の記事では腐るほど繰り返されていることだけれど、やっぱり環境を整えるのって大事だと思ったという話。

研究の性質上、僕は大学ではたいていパソコンの前にかじりついているわけだけれど、今日はパソコンを使う用事がなかったこともあって、自分のデスクじゃなくて図書館に行って勉強していた。
そうしたら、勉強の捗ること捗ること。

研究でパソコンを使うといっても、そのパソコンにはメーラーやインターネットブラウザが入っているわけで、ちょっと休憩にネットニュースやツイッターを眺めることはよくある。それに、デスクの上はお世辞にも整理整頓されているとはいえないので、並列している作業のあれやこれやに意識が散乱して、なかなか一つのことに集中しているのが難しい。たまに集中していても、メールが来たり、周りの人に話しかけられたりするし。

しかし、図書館だとパソコンがないから、休憩しようにもインターネットなんて見られないし、当然メールも来ないし、誰かに話しかけられることもない。図書館で勉強するためには、必要最低限の資料しか持って行かないから、気が散ることもない。だから特別集中する気がなくても、自然と一つのことをずっと続けることができる。

この方法のすごいところは、「集中するために気力(やる気)を消費する必要がない」ということ。例えばふだん大学で研究するときは、朝、大学に着いた時点でコーヒーをいれて、「よっしゃやるかー」みたいな気分を入れるところから始めないとやる気がでないんだけれど、図書館だとそういう儀式が必要ない。だから、「何かを始めるためにまずはやる気を盛りあげる」とかしなくていい。また、始めたあとも気が散らないので自然と作業が続いて、「やり始めることでやる気が出てくる」状態になる。すごい。
デスクで勉強しているときは、例えばブラウザを開かない精神力みたいなものが常に要求されているのだけれど、図書館だとそういう精神的なコストもない。逆にいうと、ふだん勉強しているときは、常時MPが減っていく状態異常にかかっていたのかもしれない。
ふだんの作業はやる気をすり減らしながら進めているのに、環境を整えるとむしろ、だんだんやる気が出てくる。だから、集中力がかなり持続する。今日の場合、講義のある時間帯とごはんを食べるとき以外はずっと図書館にいたんだけれど、だいたいずっと集中して作業ができてた。やる気が無くなるよりも、頭が疲れる方が早いくらいだ。

なんか、環境を変えるだけですこぶる調子が良かったので、こんどからは作業環境をもっと気をつけようと思った。
結局のところ、精神力でなんとかするよりも構造的な問題を除去するほうがはるかに有効なのだろう。