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tailwisdom's blog

tailwisdomのじゆうちょう

事実を積み上げるということ

 科学技術社会論という学問分野がある。
 その内容はググってもらうとして、科学技術社会論の分野で頻出する用語に、『欠如モデル』というのがある。

 欠如モデル。なんだか不穏な用語だけれど、その意味はそれほど難しくない。
 要するに、「無知なお前らに専門家様が『正しい知識』を教えてやるよ」みたいな傲慢な態度はウザい、という意味*1で、従来の科学コミュニケーションのあり方に対する批判である。
 従来の科学コミュニケーションは、啓蒙的なコミュニケーションで、たとえるならば教師が生徒に授業をするように、専門家が持つ「正しい知識」を効率よく市民に伝えることを目的としていた。だけれど、このやり方はあるとき*2大失敗する。その失敗がどういうものかというと、「専門家が科学的に正しい話をしているのだけれど、みんなまったく聞いてくれない」というもので、いまの日本の状況に似ている。

 ではなぜ、みんなは専門家の話を聞かないのか。欠如モデルの説明によると、啓蒙的なコミュニケーションというのは、次の条件が全て満たされたときに初めて効果を持つ。
1.市民の直面している問題が、専門家の知識のみによって解決可能である。(問題の種類)
2.専門家が、必要な知識を持っている。(専門家の能力)
3.市民が、専門家を信頼している。(市民の専門家に対する信頼)
 イギリスの狂牛病の例でいうと、政府ははじめ「狂牛病は人間は感染しない」と広報していたのだけれど、あとになって人間にも感染することがわかった(専門家の知識が間違っていた→条件2に抵触)。そのため、市民は「政府は牛肉を売るために狂牛病は安全だと嘘を付いている」と感じた(条件3に抵触)。そのため、「みんなが専門家の話を聞かない」という状況に陥った。いまの日本でも、「政府・東電は嘘を付いている」「マスコミは本当のことを報じない」と固く信じて疑わない人はときどきいる。逆に、「反原発派はみんな放射脳の馬鹿だ」と信じて疑わない人もときどきいる。

 欠如モデル批判の要点は、2つだといえる。1つは「コミュニケーションの前提には、ひとまず互いの信頼関係が必要だ」ということ。もう1つは「信頼関係の構築のためには、正しい情報を適切な文脈で伝えることが重要だ」ということ。言い換えると、嘘つきや自己中心的な人は信頼を失って話を聞いてもらえない、ということだ。 そしてひとたび信頼を失ってしまうと、もはや発言の内容は考慮されず、「この人は信用出来ない人だから」と問答無用で切り捨てられる。『御用学者』とか『放射脳』とか言ったレッテルが貼られた時点でコミュニケーションの可能性はなくなる。

 だけれど、当然ながら対立する相手にレッテルを貼ってコミュニケーションのチャンネルを閉じれば、議論はまったく進展しない。議論できないので対立は解消されないまま放置されるから、一方で大飯原発が再稼働し、他方で官邸前のデモが起こり、チグハグな状況が発生する。事故から2年以上が経つのに、原発を巡る対立は深まり硬直するばかりだ。
 そうした状況を打開するために、まずはコミュニケーションのチャンネルを開くことが必要だと思う。原発推進派の人も脱原発派の人も、ひとまずは自分の主張をいったん自分の心の中にしまって、原発について、いまどんな論点があるのか、調べてみてはどうだろう。別に、主張を変えるべきだとは思わない。だけれど、自分の立場を人に説明して相手を納得させることができるように、『相手も納得できるソース』を示すことは重要だと思う。極端な主張をしている人の発言は、なかなか信用しづらいものだ。

 ところで、欠如モデルを批判した科学技術社会論は、啓蒙的なコミュニケーションに代えてどのようなコミュニケーションを提案しているのだろうか。具体的な手法としてはいろいろと異動もあるんだけれど、その共通項として「双方向性の重視」はあげられると思う。専門家はひとまず市民の側に立って、市民の疑問や不安に答える形で科学的な知識を提供するべきではないか、ということだ。
 原発推進にしても脱原発にしても、「なぜそういう主張をするのか」を、意見の違う相手の疑問や反論に答える形で説明することが、ひとまず必要なのではないかと思う。

*1:これはすごく乱暴な要約だが。

*2:科学技術社会論のテキストでは、よくイギリスでの狂牛病遺伝子組み換え作物の例が引用される。