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tailwisdom's blog

tailwisdomのじゆうちょう

道徳教育とニセ科学

 「水からの伝言」っていう有名なニセ科学がある。
 どういうものかというと、「毎日『ありがとう』と聞かせた水は、他の水と比べて結晶(氷)が美しくなる」というもの。詳しくはwikipediaあたりを参照して欲しい。

 もちろん、水に言葉をかけたからといってその結晶構造が変化することはない。だけれど、「水からの伝言」は、教科書に載っていたこともあるらしい*1
 その教科とは、理科ではなく、道徳である。
 つまり、水からの伝言は、科学的事実ではなく、「いい話」として利用されたわけだ。
 さて、これはアリだろうか。なしだろうか。

 僕個人の間隔としては、道徳教育にフィクションの「いい話」を使うことは特に問題だとは思わない。道徳というのは自然界の物理的な法則ではなく、人間社会の特定の文化圏において推奨される価値観だからだ。そこで提示されるのは、「こういう振る舞いって美しいよね」という理想であって、それが理想である以上、それ自体ある意味でフィクションである。よく暴力的なフィクションが「子供の教育に良くない」と言われたりするけれど、裏を返せば「いい話は子供の教育に良い」ということになる。実際、絵本や子供向けアニメの基本は勧善懲悪だ。

 しかしながら、いくら道徳教育といえど、「科学的に間違った主張」を教えるのはいかがなものかとも思う。
 それは第一に、理科の授業内容と整合しない。「理科は理科、道徳は道徳」という人もいるかもしれないが、学校の授業というのは勉強のための勉強ではなく、実生活を送っていくための常識を学ぶというものであるべきだから、やはり教科によっていうことが違うというのは悪かろう。
 そして第二に、フィクションの「嘘」がいい話の「嘘」に強く結びついてしまっているように見えるのが気になる。勧善懲悪の小説を「いい話」として紹介したのなら、そのお話がつくり話であることと、そのお話がいい話であることは両立する。僕たちは、つくり話だとわかっている小説や映画に感動できるし、ときにそれらは僕たちの価値観を変える。だけれど、「水からの伝言」はどうだろうか。「良い言葉をかけると結晶が美しくなる」というのがそもそも嘘である場合、僕たちは水からの伝言に感動できるだろうか。

 「水からの伝言」のズルいところは、まるで科学的な根拠があるかのように見えるところだ。僕が冒頭で、「水からの伝言」を「非科学」ではなく「ニセ科学」と読んだのは、そういう意図がある。「科学的な根拠がありそうに振舞っているけど、実際には科学的な裏付けはない」ことが問題だと思う。はじめっから嘘であることがわかっているフィクションについて、あえてとやかくいう事はない。

 「ありがとう」といったことばがきちんと使えることは、人間関係や社会生活を構築する上で、きっと役に立つ。だから、「お礼はきちんと言おう」という教育を行うこと自体は悪いことではないと思う。ただ、そのための教材にニセ科学を用いるのは筋が悪くて、場合によっては教育の効果を台無しにしてしまうのではないかと思う。
 やはり、道徳教育に使うにしても、もっと別な「いい話」を使ったほうが良いと思うのだ。

*1:未確認。補助教材として使われただけかもしれない。